308
俺と、渚と、仁科。
三人で並んで廊下を歩く。足取りは重い。口数も少ない。
…それも、無理はない。
俺たちが目指している場所は、生徒会室。
幸村に促され、部長と副部長で談判に向かう道中だった。
足音が、少しだけ不揃い。
だけど、それもあまり気にはならない。
会長と、どんな顔して話せばいいのか。それを考えるので忙しい。
とはいえ、名案があるわけでもない。
明後日の部活の監督を頼みにいくだけ。ただ気が重いだけ。
このまま永遠に生徒会室へたどり着かなければいいのにな、などとも思うが、そんな時ほど道のりは短く感じる。
来るたびに嫌な思いをした場所。
俺たちは、再び生徒会室の前に立った。
…。
「はい、なんですか?」
渚がノックをすると、引き戸が開けられる。
相手は会長ではなく、生徒会役員の下級生だった。
生徒会役員は俺たちの姿を見ると得心したような表情になり、部屋の奥へと案内してくれた。無言で、それに続く。
足取りの向こうには、眉間に皺を寄せて書類を眺めている生徒会長の姿があった。
「あ、あの、こんにちは」
「…ああ」
渚が声をかけると、会長は今俺たちの来訪に気付いた、という様子で顔を上げた。
春原同様、会長も停学明けだ。
こんな優等生然とした人間が停学させられたのだから、俺たちのことを憎んでいるかとも思ったが、表情からはそこまでの印象はない。
むしろ、知らない奴が来た、というくらいの反応だ。ほとんど無表情。
突っかかってこられるよりはマシだが、その反応に少し戸惑う。
会長は手に持っていた書類を机に置くと、俺たちに向き直る。
「幸村先生から話は聞いている。明後日の部活の監督という話だな?」
「は、はい、そうです。お願いできないでしょうか?」
渚が慌てて頭を下げる。
他の生徒会役員は、仕事の手を止めて俺たちの様子を見ている。
少し間が空く。ぽっかりと穴のあいたような沈黙が一瞬、室内に満ちた。
「その日は僕は登校しているが、生徒会の方の仕事がある。ずっと部活の監督というのは無理だ」
「そ、そうですか…」
すげない様子で言われて、渚は肩を落とす。
とはいえ、これだけで諦めるわけにもいかないだろう。
俺が口を開こうとすると…会長が言葉を続けて、それを封じた。
「だが」
俺たちを見ていた視線がそらされる。
ずっと無表情だったが、忌々しげな表情に変わる。
「一時間とか二時間に一度とか、見回りのような感じでならば可能だ。幸村先生も、それならば構わないと言っていた」
続いた言葉は、だが、予想に反して色よいものだった。
俺は聞き間違いかと思って、会長の顔を見る。
だが相手は相変わらず、顔をそらして渋い表情のままだった。
…向こうからすれば、憎らしい相手の傍若無人な頼み事、というところだろう。
普通に考えて、快諾なんてありえない。
もしかしたら、幸村があらかじめ何か言い含めておいたのかもしれない。
こいつも、さすがに教師に対しては強気に出ることはできない。
頼みを聞いてくれるのも、幸村の顔を立ててのことなのだろうか。
正直、そのあたりのやり取りはわからないが。
俺は周囲を窺った。
渚も仁科も、こうもスムーズに話が付くとは思わなかったのだろう、ぽかんとした顔をしていた。
だが、生徒会役員の面々の表情には驚いた様子まではない気がする。知ってる奴もいないから、よくわからないが。
「あ、ありがとうございますっ」
ぼうっとしていた渚が、思い出したように頭を下げた。
仁科も慌てて礼を言って一礼する。
会長は興味もなさそうにそれを見ていた。
「幸村先生に頼まれただけだ」
すげなくそう言う。
それから、部活を始める時間などを話し合い、すぐに俺たちは生徒会室を辞する。
これも三度目の正直とでも言おうか、今回の訪問は、驚くほどにこちらの意図通りに事が進んだ。
幸村の後ろ添えももちろんあるようだが。
それでも、あれだけ揉めた生徒会長との犬猿の仲が、一気に消火された感がある。
「…」
いや。
それは楽天的すぎるな、と俺はその考えを打ち切った。
むしろ、ただ、心を閉ざしているのみといったほうがいいか。
俺はなんとなく、自分と親父の関係を思い起こす。
俺と親父。
中学の頃は、喧嘩ばかりしていた。高校になってからは、他人のように過ごしていた。
中学時代と、高校時代。それぞれの時代の、ふたりの距離。
そのどちらが致命的な関係かは、考えるまでもなく高校時代だ。
それは、喧嘩することすらできない関係。
それが悲しいものだということは、俺は既に知っている。
会長と俺たちも、同じような関係になりつつあるのだろうか。
どうやら、歌劇部と生徒会長は、かなりまずい段階まで関係が落ち込んでいるようだった。
309
部室に戻り、部活の続き。
脚本については、幸村と渚に昨日完成したものを通して読んでもらい、若干の修正をすることになる。
大幅の修正は指示されず、ほっとした。これ以上話の筋を作り変えることは考えられなかった。
幾つか言い回しなどの修正だ。あとは、演出も組み込まないといけない。宮沢も加えてそのあたりを練り直す。
他の部員は背景の作成を進める。
「あの、古河先輩」
渚と脚本を吟味していると、仁科が傍らにやってくる。
「よろしければ、これを使ってください」
仁科の手には、カセットテープがあった。
ラベルが貼ってあって、『マ・メール・ロワ』とラベルが貼ってある。
「これ、りえちゃんが劇のためにピアノソロで編曲したんですよ」
杉坂が口を出す。
「譜面を書いて、ピアノがうまい人にひいてもらったんです。ね、りえちゃん」
「うん…」
「かけてみましょうか。ラジカセ持ってきますねっ」
杉坂は言うだけいうと、ラジカセを取りに離れていく。
相変わらず、仁科のマネージャーみたいな奴だった。
「仁科さん、わざわざありがとうございます」
「いえ、私たち、演劇の方はこれくらいでしかお手伝いできていないので…」
「それを言うなら、俺たちは合唱の手伝いは全然できてないぞ」
俺は苦笑してそう言うしかない。
手伝ったというと、曲選びの時に少しは意見を言ったことがあった。だが、それくらいだ。
「あと、先輩の衣装の案も作ったんですよ」
仁科の隣の原田がノートを見せてくる。
そういえば、渚の衣装についてもこいつらに頼んでいた。前は早苗さんが作ってくれたんだっけな。頼りきりで、頭が下がる。
案としては、シンプルなワンピースとケープを羽織った民族衣装っぽいものとふたつあるみたいだ。以前の演劇と衣装は違う。
それは当たり前だ。だが、衣装が変わるだけで演劇の印象が少し変わるな。
後者は、雰囲気が前回の衣装に似ている気がする。
「おまたせしました…って、衣装の話?」
戻ってきた杉坂もノートを覗き込む。
「うん。古河先輩に選んでもらおうと思って」
「どちらも素敵だと思いますっ」
渚は衣装のスケッチをじっと見て、下級生たちに頭を下げた。
「衣装としては、こっちが楽そうじゃが…舞台栄えはせんじゃろう」
幸村は真っ白なワンピースの案は否定する。
「俺も、じいさんと同じかな」
後者に同意。前回と雰囲気が近いほうが、舞台がイメージしやすい。
「そうですよね。作らなくても、その辺に売ってそうですし、世界観には馴染まないかもしれません」
「いえ、合唱の方がお忙しいなら無理しなくて全然構わないです」
「無理なんて、そんなことはないですよ。それじゃ、こちらの方で作ります。安心してください、先輩の魅力を最大限に引き出す衣装を作ってみせますから」
原田がぐっと拳を握って変態のような言葉を吐いた。
「ありがとうございますっ」
渚は素直に礼を言う。
「さ、それじゃ、音楽も聴いてみましょう」
杉坂がラジカセをセットする。
マ・メール・ロワ。
俺はクラシックについては詳しくないし、興味もないが、心落ち着かせる曲だった。
たしか、以前演劇をやったときもこの曲だったような気がする。
なんとなく懐かしいような気がするのは、そのせいだろうか。
「この間のCDは管楽器のものでしたので、印象が違うと思います。どうでしょうか?」
「とってもいいと思います。仁科さん、わざわざありがとうございますっ」
「いえ、お力になれたなら私もうれしいですから」
仁科も、にっこりと笑った。
「なあ、仁科」
「あ、岡崎先輩。この曲、ダメですか?」
俺が声をかけると、途端に心配そうな顔つきになった。
俺は苦笑する。別にそんなつもりで声をかけたのではなかったが。
「いや、いいと思うよ。ありがとな」
「そうですか…。よかったです」
「迷惑ついでに、もうひとつだけ頼まれてくれないか?」
「あ、はい。いいですけど、なんでしょうか」
こっちが何も言っていないのに了承する仁科はお人よしだと思う。
「もう一曲、劇の中で流したい曲が出てきてさ…」
そうして、俺は仁科に脚本を読ませて、この物語の新しいエンディングを詰める作業に入った。
310
やがて下校時間になる。
俺たちはそれぞれの作業を止めると、一度全員で集まって片付け。
背景の画板をしまい、絵の具類を片付ける。職員室の機械で訂正を入れた脚本のコピーを作りに行く。隣の部屋で合唱の練習をした下級生も戻ってくる。校舎内を駆け回っていた風子も同様だ。
片付けがひと段落して、部員たちがまとまる。
自然、幸村を囲むような形になった。
「ふむ…?」
「あの、先生、下校の準備ができました」
「うむ…」
渚の言葉に頷くと、幸村は俺たちを見回した。
「春原が今日入部して、やっと部員が十人、揃ったの」
求められるように話をはじめる。俺たちは黙ってそれを聞く。
「これで演劇と合唱の両方の発表ができるが、参加することだけが目的というわけではない。参加するならば、満足な発表ができるよう準備を進めないといけないの」
今までは幸村が最後までいてくれたことはなかったから、こうしてきちんと訓示を聞いたりということはなかった。
だが、こうして集会のようなことをしていると、部活をしている、というような気分になって胸がいっぱいになる。
歌劇部が全員揃って、本格的にすべてが動き出したのだと、そう思わせる。
「古河」
「はいっ」
「よくがんばったの」
「あ、ありがとうございます」
「仁科」
「はい」
「おぬしも、よぅがんばった」
「は、はい」
演劇部の代表と、合唱部の代表。二人は幸村に声を掛けられて、慌てて頷いた。
「ふたりとも、夢をかなえるとよい。他のみんなもそれを支えて、一緒にいい発表を作ってくれ」
声を掛けられて、俺たちも同意の言葉を口にする。
幸村は目を細めてそれを見る。
「…さて、明日の部活は、いつからにしようかの?」
「あ、えぇと…。幸村先生は、お孫さんと旅行に行かれるんですよね?」
「うむ、明後日からの」
一日ずらしてもらっているからな。本来は、明日からのはずだが。
「わたしは、早めに始めて早めに終わろうかと思っているんですが…」
そこまで言って、うかがうように部員の表情を見た。
たしかに、そのほうが幸村の予定としてもいいだろう。
俺に異論はなく、他の連中も同様だった。
部活の終了時間は折を見るとして、開始は朝の九時ということになる。
「うむ…。それでは、今日は終了としようかの」
話がまとまったのを見て、幸村が小さく頷く。
「それでは…」
そうして、渚を見た。
「はい、なんでしょうか?」
「…挨拶じゃ、挨拶」
「部活が終わる時も、実は挨拶をするんだよ」
「…ええっ?」
俺が付け加えた補足に、渚は戸惑ったような顔を向けた。
普段はわいわい話しながら帰っていて、特別なにか号令を、ということもなかったな、そういえば。
「ど、どうすればいいんでしょうか…?」
我らが部長は、困った顔で部員たちを見回して、最後にすがるように俺を見た。
…俺かよ。
やれやれと思うが、やっぱり嬉しい俺だった。
「ほら、お疲れ様でしたとか、ありがとうございましたとかさ」
フォローする。
「わ、わかりましたっ」
やってみます、と渚。
…なんだか、前も同じようなやり取りをしたような気がするな。
「それじゃ、こっちですよね」
「え? 並ぶの?」
「ああ、まぁな」
「わかりました…」
「ちょっと机、どけますね」
言い合いながら、俺たちは部室の廊下側に一列に並んだ。
歌劇部部室を眺め見る。
部室には絵の具の匂いがまだ残っている。雑然と色々な道具がしまわれたり、積み重ねられたりしている。
そっけないほど真っ黒だった黒板は、みんなが適当に落書きしていてごちゃごちゃしている。中央に大きく『創立者祭まであと9日!!』と描かれているのが見える。
人の温もりが部屋の中には満ちている。
ずっと前、最初にここを訪ねた時。
その時は、誰もいなくなって長い時がすぎた名残ばかりが残されていた。
だが、今は。
今はここに、たくさんの人が集っていた。
渚、風子、杏、ことみ、智代、春原、宮沢、椋、仁科、杉坂、原田、そして幸村。
しっかり詰めないと、壁際に一列になれない。
こんなたくさんの人間が、ここに集まっていた。
空は、優しい夕暮れ。
春の風に、雲がそっと押し流されているのが見える。
歌劇部、十人。
求めていた仲間は、ここに揃っているのだ。
「では…」
渚が、緊張した声を出す。
「ご唱和を、お願いしますっ」
笑ってしまうほど、かつても聞いた言葉だった。
だが、今はあの頃とは違うのだ。
「今日も、ありがとうございましたっ」
「ありがとうございましたっ」
渚の言葉に続いて、部員たちの声が重なった。
渚に続いて、礼。
そして顔を上げて、俺たちは笑い合った。
俺たちは、ここまでたどり着いたのだと。