folks‐lore 04/30



275


春原を除いた全員がそろうと、渚のいただきますの声に合わせて各自弁当を開く。


今日は仁科が弁当を作ってきてくれた。


見てみると、 相変わらず勝負弁当! という感じのラインナップなのが可愛らしい。


「うまそうだな、今日も」


「いえ、大したものじゃないんですけど…」


素直に褒めると、仁科は恥ずかしそうに俯いた。


それからは、食べながら雑談。



…。



「そういえばさ」


ある程度、ご飯を食べ終わった頃。


俺は各々話に区切りがついたようなタイミングを狙って言う。部員たちが俺を見た。


「実は、明日芽衣ちゃんが実家の方に帰っちゃうみたいなんだけどさ、なにかみんなでプレゼントでもしないか?」


「明日、帰っちゃうんですか…」


渚は少し悲しそうな顔をした。


「でも、学校をずっと休んでいるわけにもいかないですから…」


「あ…そうですね」


椋にそう言われて、うんうんと頷く。


「ま、なんだかんだ、一週間くらいこっちにいるからな」


「さすがに授業についていけなくなりそうですね」


杉坂はまあ仕方がない、という顔だった。


芽衣ちゃんの要領のよさを鑑みるに、その辺は全然問題なさそうだが。ただ、学校への心証とか、単純に登校日数などが問題だろう。


「なんだか、あっという間でした」


「まあな…」


風子や俺は、この中の誰よりも芽衣ちゃんと過ごした時間は長い。だけどそれでも、本当にあっという間だった。


あの子がうちにいてくれたことで、こっちはどれだけ助けられたかもしれない。


「この間は渚さんのおうちで色々お話できて、楽しかったです」


宮沢はにっこり笑う。


たしかに部活の場には結構いてくれたりして、部員とも仲良くやってくれていた。


その姿がなくなるのは、寂しいものでもある。


「朋也くん、プレゼント、どうしよう」


「それを話し合おうと思ってな」


ことみに答える。


ここへ来た記念としては、昨日のあの家族写真もいいものだとは思う。


だが、それをプレゼントと考えるにしても、岡崎家からのプレゼントだ。


部からもなにかひとつ、できればあげたい。


「なにもあげないっていうのも、寂しいだろ」


「朋也にしては、気が利くわね」


杏がからかうように口を挟んだ。


さすが妹相手には対応が違うわ、などと揶揄されていると、仁科や原田がくすくすと笑う。


「ぎりぎりで明日に買うわけにもいかないですから、今日のうちに決めて買ってしまわないといけませんね」


「ああ。そういうことだな」


仁科が話をまとめてくれる。


本当はもっと早く考えるべきだったんだけど、バタバタしていたからな。


昨日芽衣ちゃんが帰ってしまうという話がいよいよ出てきて、それでやっと思いついた。


それから昼休みの終わりまで、あれこれとプレゼントの話し合いになる。



…。



あまりかさばるものを渡すわけにもいかないし、 結局、アクセサリー類がいいんじゃないかという話になった。


昨日芽衣ちゃんがプリントシールのノートを買って一緒に撮ったことを話すと、せっかくだから部員で撮ってプレゼントしよう、ということに。


で、今日は部活を早めに切り上げてみんなで放課後は商店街、という話に続く。


杏がついでに部員たちでご飯でも食べよう、という話をして、それについてもあれよあれよと決定してしまう。


最初は渚が家に帰ってご飯を作る手伝いをしないといけない、と反対をしたのだが、場の流れに完全に流されて最終的には頷かされていた。


…それでいいのか、俺の嫁(予定)。


そういえば以前、俺が初めてオッサンや早苗さんと出会った時は、たしか外食に誘って断られて、古河家に招待されたのだ。


渚は家族を大切にしている。


夕飯は、とても大事な一家団欒なのだ。


でも、オッサンも早苗さんも、彼女が部員と一緒にご飯を食べに行くことを喜ばないはずはないよな、とも思う。


家に電話をしなきゃいけませんっ、とひとりで慌てている渚を見ながら、俺は少しだけ笑ってしまった。


俺も、家に電話をしないと芽衣ちゃんが夕飯の用意をしてしまうだろう。


…いや、というか、芽衣ちゃんも呼べばいい話か。


部員とも話し合い、適当な時間に芽衣ちゃんと落ち合うことにする。


そういえば、みんなで外に遊びに行くというのは初めてのことだな。


放課後が、楽しみになった。






276


「宮沢、宮沢」


昼休みの終わりが近付き、一同新校舎へ向かう道すがら、俺は宮沢を手招きする。


「どうしたんですか、朋也さん」


ちょこんと首をかしげて俺を見た。


彼女に聞きたいことがあった。それは、昨日不良が教えてくれた宮沢が俺に言っていないお願いのこと。集会に参加してくれ、という話だ。


「俺に、言いたいことがあるんじゃないのか?」


「言いたいこと、ですか」


「ああ」


俺の言葉を聞いて、 宮沢は真剣な顔をした。


…何故か俺は緊張してくる。


宮沢は、ものすごく深刻な顔をしていた。結構気軽に聞いてしまったが、聞く場を間違えたかと慌てる。


気がせって、弁解するように昨日不良とゲーセンで会って話したことを伝える。


…あ、やべ、このこと宮沢には言うなって釘をさされていた。まあいいか。


話を聞いた宮沢はびっくりしたように目を開いて俺を見る。


「あ。そっちの話でしたか」


「…そっちの話?」


「い、いえっ、なんでもないです」


慌てたようにぱたぱたと手と頭を振る。長い髪がふわふわと揺れる。


苦笑いした宮沢が、少しほっとしたように息をついた。


「えぇと、すみません、少しだけ勘違いをしてしまいました。はは、本当はもう少し早くお誘いしたいと思っていたんですけど、部活の今後の予定がわからなくてなかなか…」


「あぁ、悪いな、シナリオが止まってるからだよな…」


「いえ、わたしも朋也さんと一緒のシナリオの担当ですから」


そう言ってくれると救われる。


「でも、そっちの用事も大事な用なんだろ?」


「はい」


宮沢は神妙に頷く。


彼女の横顔は、大人びて見えた。


「とても、とても大切な用事なんです。もし、よろしければ…朋也さんも、そこに一緒にいてくれれば、嬉しいです」


「行くよ、もちろん」


俺はすぐにそう答える。


もちろん部活の用事だってあるだろう。だがそれは、何とかならないことではない。


俺は宮沢が単純に自分を頼ってくれていること、必要としてくれていることが嬉しかった。


俺はその気持ちに、応えたいと思った。


「ありがとうございます」


ちょっとだけ緊張した様子だった宮沢が、安心したように笑う。


「それで、どんな用事なんだ?」


「それは、ですね」


そう聞くと、宮沢は困った顔になった。


「あの、須藤さんからは何も聞いてないんでしょうか?」


「集まりってだけ」


「そうですか…」


宮沢は考え込む仕草をする。


「それなら、もう少し、わたしの気持ちの整理がついたらお話しますね」


「ああ、頼む」


…気持ちの整理が必要なこと。


なるほど、どうもただ事ではないような気がするな。


今は待つしかないみたいだけど。


宮沢は申し訳なさそうな顔をしている。


気にするな、と言うと彼女は少し安心したように笑った。






277


放課後になる。


芽衣ちゃんへのプレゼントを買いにいこうという話もあるが、その前に部活だ。


「お、岡崎くん…」


帰りの支度をしていると、すぐさま椋が横に来る。


「あの、私、これから創立者祭の説明会があるので少し遅れていきますね」


「ああ、わかった」


今日は生徒会から各クラスの委員への通達、資料配布などがあるらしい。あまり時間はかからないようだけど。


「じゃ、またな」


「は、はいっ」


そういえば、 こいつともずいぶん自然に会話するようになったな…。


俺はそんなことを思いつつ、教室を出た。



…。



部室に入ると、メンバーは少な目。渚、ことみ、仁科、原田。


今日は幸村もいて、合唱部の面々となにやら話していた。


「よう」


「岡崎さん、こんにちは」


ことみと話していた渚が、俺を見て頭を下げる。


「風子は?」


いつもは、呼んでもないのにいるのだが。


「下校する生徒のみなさんに、ヒトデを配ると言ってさっき出て行きました」


また帰ってくるそうです、と続ける。


あいつもあいつで忙しいようだ。


「宮沢はまだ?」


「はい、クラスの手伝いがあって少し遅れるみたいです」


「そうか」


そろそろ創立者祭も近い。本格的に準備を始める時期だろう。


宮沢はクラスの方はチョイ役というようなことを言っていたが、それでもやることはあるのだろう。


「私たちも、お化け屋敷の準備が始まってますよ」


近付いてきた仁科が言う。


「はい。杉坂さんも、今日はそっちのお手伝いに行っちゃったんです。衣装の採寸とか、話し合いがあるみたいで。多分、あんまり長くはかからないはずですけど」


原田がそう付け加える。


「そういや、あいつもいないな」


今気付いた。


「脅かし役をやるんだっけ?」


「はい、河童です」


俺の問いに、仁科が答える。


「杉坂さんらしいB級さですよね」


「…」


原田は辛辣だった。


「おまえは、何かやるのか?」


「私はりえちゃんと同じで受付ですよ」


「へぇ。それじゃ、おまえも仮装するのか」


たしか仁科は、着物を着るとか言っていたな。


「はい。一応魔女の格好をする予定ですよ。クラスの子がハロウィン用の衣装を持っているみたいで、それを着るんです」


「へぇ」


素直そうな外見だが、性格が邪悪な原田にはよく似合いそうだった。


「それじゃ、当日は暇があったら見に行くよ」


「そ、それは少し恥ずかしいです…」


「…くすくす」


普通に照れる原田を見て、仁科はおかしそうに笑った。


「杏先輩と椋先輩は、またクラスの方ですか?」


「まあな。今、クラス展示のほうも結構忙しそうでさ」


「そうですね。もうそういう時期ですから」


「ねえ、朋也くん。私たちは、杏ちゃんと椋ちゃんのお手伝いをしなくてもいいの?」


「呼ばれてないから、まあ、いいんだろ」


「ですけど、元々クラスの展示を手伝う代わりに部員になってもらうという約束だったので、なにかしてあげたいです」


ことみも渚も、向こうが気になる様子だった。


まあ、たしかにクラスの方にはあまり協力できていないのは事実。なんだかんだ助けてもらってばかりだ。


「きたら、なにかできないか聞いてみるか」


「はい、それがいいと思います」


「今ぐらいからが、どこも忙しくなる時期だからの」


幸村が顎に手を当てながら言った。


「あぁ。じいさん、今日はこれたんだな」


この人も結構忙しいようで、放課後すぐに来ているというのは珍しい。いてくれると、わからないところをすぐ聞けるのでありがたい存在だ。


「うむ…。演劇はシナリオが進んでおらんと聞いたが」


「ま、まあな…」


痛い所を突かれる。


「進まん時は進まん…。頑張るのもいいが、どうしようもないなら別のことをやればよい」


「別のこと?」


「ほれ、背景はまだ作っておらんようだがの」


「そういえば、そうだな」


背景は何を作るかはある程度話し合っている。草原、雪原。ガラクタを積み上げて作った不出来なおもちゃの背景。そのみっつの背景と衣装などの小道具が事前に準備するものだ。当日は舞台演出などがあって、そっちの練習もしないといけない。


芽衣ちゃんへのお土産を買いに早めに切り上げる必要があり、人手も少ない今日は背景の下準備が適当かもしれない。


「じゃ、そうしてみるよ。サンキュー、じいさん」


「うむ…」


和やかに会話をする俺たちを、渚が何故かハラハラした表情で見ていた。


控えめな様子で、俺たちの間にはいってきた。


「す、すみません、幸村先生。岡崎さんは、悪気があってこういう風に言っているんじゃないんです…」


何故か渚が幸村に頭を下げる。


… あれ? 俺何かじいさんに変なことを言ったか?


突然謝罪をした渚を見て、俺の頭の上にはハテナマークが浮かんだ。


「む…? 何がかの…?」


「あの、先生への話し方とか…」


「ああ…」


まだそれを気にしていたのか、渚。


たしかに、敬語とかではないけどさ。


「もう慣れたから、気にするでない」


「えぇ…?」


「ずっと昔からこんな感じだから、平気って言っただろ。な、じいさん」


「おぬしはもう少し話し方を改善させようとは思わんのか…?」


「いや、でも、今さら直してもおかしいだけだと思うしさ」


俺が苦笑すると、老教師も苦笑した。


教師と生徒という立場からすれば好ましくないのかもしれないが、俺とじいさんの間の関係はずっと前からこんなものだった。それが自然な姿だったから、自然のままでやっていきたい。


どうやら、そう考えているのはお互い様のようで、俺は少し安心した。



…。



背景を作るための模造紙はこの前の日曜日に買って、翌日には部室に持ち込んでいる。


それぞれが絵の具も持ち込んできているので、準備は万端だ。


仁科と原田は、今日は杉坂がいないからとこっちの背景作成に付き合ってくれることになる。


「まずは、草原の背景を描くか」


俺は全員を見渡す。


「…絵がうまい奴、いるか?」


あいにく、俺の実力は絶望的だ。下書きが終わって、塗るだけというなら力になれるかもしれないが、それ以前の作業では戦力外。むしろ加えると戦力が下がる。


俺はまず、渚を見た。渚の画力を思い出す。


…俺は黙って目を逸らせた。


「仁科、絵を描くの得意か?」


「わ、私ですか?」


仁科は話を振られて慌てる。


「すみません、あんまり得意ではないです…。古河先輩は、お上手そうですけど」


「いや、そんなことないって」


俺と五十歩百歩のレベルだからな。


「岡崎さん、ひどいです」


渚がちょっとむくれて俺を見た。可愛い。


「それじゃ、得意なのか?」


「すみません、無理です」


聞いてみたら、あっさりそう言われる。


まあ、そうだよな。


「ことみちゃんは、どうですか?」


「そうですね。一ノ瀬先輩はどの科目もそつがなさそうですし」


「ええと…」


期待のこもった目を向けられて、ことみは口ごもった。


「…」


そして、しばらく考え込み…


「うん、まかせてほしいのっ」


そう言った。


むしろ今の間が非常に不安なんだが…。


「わ、さすがことみちゃんですっ」


「それでは、ぱぱっとよろしくお願いしますっ」


「う、うん…っ」


ことみは鉛筆を持って、床に広げた模造紙に向き合った。


真剣な表情で鉛筆を握り締める。


じっと視線を模造紙に注ぐ。


俺たちは固唾を呑んでその様子を見守る。



…。



ことみがさっ! と鉛筆を持った手を天にかざす。


勢いよく模造紙に線を引く…というところで、動きを止めた。


そして。


「…実は、絵を描くの、あんまり得意じゃないの」


恥ずかしそうにこっちを見上げて呟いた。


俺たちは全員ずるーーーっ、とその場で滑っていた。


…まあ、こうなることは予想していたんだが。


「もう、仕方がないですね」


やれやれ、という様子で原田が呟く。


「それじゃ、私が下書きならやりますよ」


「え? おまえが?」


「はい。一応、中学の時は美術部でした」


「すごいですっ」


「いえ、すごいというわけではないんですけど…」


渚に褒められて、肩を縮こまらせる。


「大してうまくないですから、期待しないでください」


そう言うと、鞄からルーズリーフを取り出してさらさらとスケッチを描く。


そして、大して時間もおかずに線画が出来上がった。手前に草原があり、丘になっている奥までその景色が続いている。そして端には世界の果てに住む少女が暮らしている簡素な木の建物。


…あっという間にそれらを描いて見せた。


「こういう感じでいいですか?」


「わ、すごいですっ」


「うんっ。とっても上手なのっ」


「うむ、大したものじゃの」


「原田さん、こんな才能あったんだね」


「ああ、おまえのおかげで背景が簡単にできそうだな」


意外な原田の隠し技能に、俺たちは口々に言った。


「えぇ? 褒めても何も出ないですよ?」


対して原田は恥ずかしそうにそう言うが、ニヤニヤ笑いは隠せていなかった。お調子者だな、おまえ。


俺たちは気をよくした原田にそのまま下書きを頼む。謙遜しながらも乗り気になった原田は、ホイホイとその役目を買って出てくれた。


ともかくこれで、背景の段取りは道が見えてきた。


それから、作業開始。



…。



原田の下書きを待つ間、俺はジュースでも買ってくる、と伝えて部室を出た。ボーっと待つのも暇だしな。


ぶらぶらと放課後の人気のない廊下を歩いていると、後ろから仁科が俺を追いかけてきた。


「…あのっ。岡崎先輩。荷物持ち、お手伝いしますよ」


「ああ、悪いな」


「いえ」


隣に並ぶ。


「一緒にジュースを買いに行くって、前にもあったな」


「そうですね。先週の初めですよね」


なんだか、もう懐かしいです、と仁科は笑った。


たしかにな。あの時から一週間くらい経っているはずだ。だが、ずいぶん昔のことのようにも感じる。


先週は先週で、忙しかったからな…。


「あの時は、俺たちが険悪だと思われないように、とかって一緒にいたんだっけな」


「はい、そうでしたね」


「今はもう、そういう噂はなくなってきてるのか?」


正直、よくわからない。減ってきているようにも思うが、陰ではまだ話されているかもしれないし。


「ほとんどないと思いますよ。あの…岡崎さんは知らないと思うんですけど、前に杉坂さんがクラスのみんなに怒ったことがあるんです」


「…」


「私たちが、先輩に、その、えぇと、嫌がらせをされているって思われていた時があったんです」


「ああ」


「それは勘違いなんですけど、クラスの子が、演劇部の悪口みたいなことを言って私たちを慰めてくれたことがあるんです。それは悪気があったわけじゃないと思うんですけど…それに対して、杉坂さんがすごく怒ったんです」


「…」


「岡崎先輩は、悪者なんかじゃないって」


「…」


そんなことがあったのか。


そういえば、昼に杉坂が俺を庇ったのが二回目、というようなことを言っていた。


つまり今話してくれたのが、一回目なんだろう。


普段肩を並べて一緒に授業を受けている人間に声を荒げるというのは、かなり心情としてきついものだろう。


だが、彼女は言った。俺や、渚や、演劇部の名誉を守るために。


…そう思うと、普段憎まれ口をたたきながら、杉坂もこの部活のことを大事にしてくれているのだとわかって心が温かくなる。


「その後に、原田さんが部員になるって言ってくれたんです。最初はもめている部活で入る気がなかったみたいなんですけど、杉坂さんがそう言ったのを聞いて、部活をやってみたいって思ってくれたみたいなんです」


「そうなのか…」


俺はそう言うと、言葉を続けられない。


仁科もそれ以上は黙して語らない。


俺たちはしばらく無言で旧校舎を歩く。


旧校舎のほかの部室から、部活をする様子が聞こえる。


笑い声、話し声、楽器の音、雑多な物音。


俺たちはそれに耳を澄ますように、しばらく無言で歩を進める。


「あいつには、感謝をしてもし足りないな」


「はい。私も、そうです。杉坂さんがいないと、私も頑張ろうって思えませんでしたから」


「でも、あいつ、なんでそんなこっちを庇ってくれるんだ?」


そりゃ、ありがたいけどな。


「えぇと…」


素朴な疑問を口にすると、仁科は考え込むように言葉を濁した。


「多分、ですけど」


少しして、言葉を続ける。


「岡崎先輩も、古河先輩も、私も。少しずつ似ているからなんだと思います」


「似ている?」


「はい、そうです」


俺は隣の仁科を見る。


仁科は俺の方は見ず、右手を掲げてじっと見ていた。


「私は、昔、バイオリンをやっていたんです」


「…」


その話に、俺はぐっと黙り込む。


以前にもこんな話を聞いたことがあるような気がした。


いつだっただろうか、それは最近ではない。


「…」


そうだ。


それは、『以前』のことだ。


杉坂が俺たちの演劇部の結成を妨害しようとして、でもそれもあまりうまくいかず、直接対面して言葉を交わした。


その時に杉坂は言ったのだ。


やっと笑えるようになった仁科の邪魔をするな、と。


俺はその時の記憶が、不意に蘇る。


ずいぶん昔のことなのに、やけに鮮やかに脳裏にその時が再現された。


「ですけど、事故に遭ってしまって、握力が前ほどはなくなってしまったんです」


その話は、以前も杉坂から聞かされた話だった。今の俺たちとは、あまりにかけ離れた敵対関係の中で、だが。


「小さい頃からずっとバイオリンをやっていて、もうそれを続けることができなくなってしまって、もうなにも頑張りたくなんてないって思っていました。ですけど、幸村先生が私に、まだ歌を歌うことはできるし、それはとても楽しいことだって気付かせてくれたんです」


かつては、あまりうまくは交わらなかった、俺たちの道筋だ。かつて俺たちは、顧問を取り合った。


「楽しいことがなくなってしまって、ですけど、また、新しい楽しいことを見つけることができたんです」


仁科はそこまで言って言葉を区切ると、本当に美しく笑って、俺を見た。


「ほら、先輩と同じですよ。私も、先輩も」


「…」


俺は何も言えない。うまく言葉が出てこない。


「だから、杉坂さんは先輩のためにも怒ったんです。私も先輩も、似たもの同士なんです」


「…」


それは違う。


それは違うんだ、仁科。


俺はおまえほど、立派じゃない。


俺は新しく楽しいことを見つけたわけじゃなくて、他に何をすればいいのかわからないだけなんだ。


だから、俺はおまえが思っているほど、大した人間ではない。


「そんな先輩と一緒だから、私は頑張ろうって、毎日毎日思うんです」


仁科は俺の気も知らず信頼の眼差しを向ける。


その瞳は、眩しかった。


俺自身、普段は感じないような引け目を激しく照らし出すほどに。


俺は小さく頷いた。


だが、どうしても、言葉を返すことはできなかった。






back   top   next

inserted by FC2 system