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放課後になった。
教師が教室を出て行くと、わっと喧騒が満ちる。
その原因は、クラス展示の準備。
今ではもう、教室の後ろに作成中の看板や工作道具類があったりと散乱している。大道具の係りであろうクラスメートたちがぞろぞろと教室後方に集結し、E組の生徒もわらわらと入ってきて、しばらくぼんやりしていると教室の中はあっという間に活気に呑まれた。
お祭りを待っている、浮ついた雰囲気。この学校では異質な空気だが、居心地はよかった。
輪の中心にはいつの間にか来ていた杏がいて、あれやこれやと話したり、指示を出したりしている。なにせ、実行委員長だからな。
「杏ちゃん、とっても忙しそうなの」
「ああ、そうだな」
隣にはこれもいつの間にかことみが来ていて、喧騒を見ながらぼんやりと呟く。
「…結構、騒がしいな」
以前は、クラスでこんなわいわいとした状況になるのは見たことがなかった。というか、こんな風に受験生が騒いでもいいというような風潮はなかった。
そういう意味では、杏は良くも悪くも校風を壊しているのだろう。
少し前に担任はクラス展示にあまりいい表情をしていなかったが、その理由もわからなくはない。学業第一、というのが校風だったのだ。
だがこの変化が悪い変化だとは、俺には思えなかった。
「でも、とっても、楽しそうなの」
俺の考えていることは、ことみも同様だったらしい。
彼女はちょっと笑って、なんだか忙しそうに立ち働く生徒たちを見ていた。
俺はことみの横顔を見る。
穏やかで、美しい笑顔だった。
「…こういうの、嫌いじゃないか? 騒がしいしさ」
「最初は、やっぱり怖かったけど…」
そこまで言って、考え込む。
「…」
「…」
「…今は、朋也くんがいるから」
「そうか。それなら、よかったよ」
俺は嬉しくなる。
そうだ、こんな光景は、それは幸せな光景なのだ。
「ずっとおまえ、こもりっきりだっただろ」
「うん」
「だからさ、迷惑かもしれないとも思ったけど、こうやって外に連れ出して…それで、こういうのもいいって思ってもらえたなら、嬉しいよ」
「うん…」
「子供の頃から、それを思っててさ…」
「え…」
ん…?
ことみがびっくりしたように俺を見た。
視線を受けて、ぼんやりと喋っていた俺は、夢から覚めたような気分になる。
「あれ、今、変なこと言ったな…」
俺は頭を振る。ぼんやりしていて、考え無しに口が動いていたので、セリフはよくは覚えていないけど…
「ううん、いいの」
ぎゅ、と、ことみはいじらしく俺の制服の裾を握った。
「朋也くんは、朋也くんだから」
「あ、ああ…」
俺は曖昧に頷く。ことみは嬉しそうに笑う。
「なにしてるの?」
「ラブコメしてるの?」
「違うよ、これは…ガチラブだよ」
「イチャ甘ってやつだね…」
「こんな伏兵がいるとはね…」
そんな俺たちの傍らを、椋の友人の女生徒たちが噂をしながら通り過ぎていった。集中砲火のように生暖かい視線を浴びせられて、なんだか肩身が狭くなる。
…他にも何人か、俺たちの様子をちらちら見ている奴がいることに気付く。
俺はネクタイをいじる振りをしてごまかした。ことみはきょとんとしてこっちを見ている。
顔が熱い。
あぁ、何教室で恥ずかしいことをしているのだろう。まったく、もし渚とかに見られでもしてたら…
「あ、あの、岡崎さん、こんにちは…っ」
っていらっしゃるーーーーーーーーっっ!!?
俺は教室の床を滑っていった。
「なっ、なっ、なっ…?!」
「渚ちゃん、こんにちは」
「あ、はい、ことみちゃん、こんにちは」
浮気現場に踏み込まれたようにアホのように慌てる俺の横で、渚とことみは挨拶を交わしていた。
見られて、ない? いや、タイミング的にそれはありえないな。
気にしてない? うわ、それはそれでショックなんだが…。
俺はぱくぱくと口をあけてしまう。
「…お魚の真似?」
「…」
違う。
ことみへのツッコミをぐっとこらえて、深呼吸。
…。
「で、渚はどうしてここに?」
「はい、杏ちゃんにクラスのほうを手伝ってほしいと言われたので」
「部活は?」
「今日は、お休みです」
そう言ってはにかむ俺の嫁。可愛い。
まあ、部活は部活で時間が余っているわけではないんだけどな…。
「仁科さんたちは合唱の練習をするそうです。宮沢さんはやりたい用事があるので今日は帰るとおっしゃっていました」
「そうか」
下級生にも話は通っているようだった。
そうして話していると、教室の後方を作業用に空けることになったようで、ばたばたと机を動かしたりという準備に巻き込まれる。
放課後にも教室で勉強をしている奴はいたはずなのだが、今見ると、そんな姿はない。
ここまでクラス展示の話が進んでいるので、もう諦めて勉強場所を図書室などに移動させているのだろう。
当然、クラス全員から諸手を挙げて賛成なんかしてもらってはいないだろうな、と思うが、杏ならば詫びいれて全員の了承とってそうな気もする。
手伝いに来ている人数はかなりいて、総がかりでやればあっという間に机の移動は終わる。
開いたスペースに大道具担当であろう生徒たちが作りかけの看板を広げ、わいわいと作業を始める。
別の一角では女子生徒たちが集まってちくちくと裁縫を始めている。小道具の衣装ということか。メイドの格好だっけっか。少し、楽しみだ。
「お姉ちゃんが準備できたら、出発です」
小道具の女生徒と話していた椋が傍らにやってきて言う。
「ああ、わかった」
見てみると、杏は看板作りのメンツに混じり、なにやら話し合っている。というか、議論が紛糾している様子。
今作っているのをもっと可愛い看板に、という方向転換をしようとしているようだが、行き詰っているようだった。大道具のリーダーとイメージが違うようで、真剣な顔をして言葉を交わしている。大変そうだ。
「…で、でも、もう少しかかりそうですけど」
椋はそんな様子を見て苦笑する。俺も同じような表情を返した。
杏はこんなことしてて自分の受験勉強の時間なんて取れているのだろうか。抜かりないとは思いつつ、さすがにやはり心配になるほどの仕事量だ。
俺、椋、渚、ことみで手近な机を引っ張り出して、そこに座る。すぐに風子もやってきた。
俺は昼に杏から渡された書類の作成をする。わからないところもかなり多いが、椋に聞けば大体答えてくれる。
とはいえ、まさに事務仕事といった作業。心躍るものではない。
悪戦苦闘をしている横で、女子たちは楽しそうに雑談していた。
昨日のこと、部活のことから、渚の家族の話へ。そして…
「ことみちゃんのお父さんやお母さんは、どんな方なんですか?」
親の話をしていた。
「えぇとね…とっても優しいの」
ことみは言葉を考えながら、かみしめるように言葉をつないだ。
「それで、とってもあったかいの」
渚は、うんうんと頷く。
俺はことみの家族を思う。たしかにきっと、ことみの親はとても優しい人たちなのだろうな、と思う。ことみを見ているとそう思える。
そうして、話題は移っていく。
彼女らの話を聞き流しながら俺は書類作成に勤しんだ。
だから、気付かなかった。
両親の話をしている時に、ことみが悲しそうな顔をしていることに。
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少しして話のけりがついた杏が合流し、俺たちはコーヒーの練習をしようと商店街へと繰り出す。
「看板、決まったのか」
「すぐには無理よ。もうちょっとそれぞれで考えてみなきゃ」
まだまだやることは山積みになっているらしい。
「大変だな」
「そうでもないわよ」
杏は実際、けろりとした表情で言った。
もちろん負担ではあるのだろうが、楽しんでいる、ということなのだろう。そういうところを見ていると、将来保育園で働いていた姿が重なる。仕事は大変だったろうが、たしかに、あいつはあの頃も楽しそうだった。
…。
昇降口。
靴を履き替えて外に出ると、正門の手前の辺り、少し開けた場所で生徒会長選挙の演説が行われていた。それなりに人だかりができている。
「あ、ちょうど坂上さんが演説をやっているみたいです」
「みたいだな」
人ごみに紛れて姿はよく見えないが、声は聞こえる。春の空気に透き通るような声だ。弁舌鮮やかでこれも才能なのだな、と思わせるような。
これから商店街にいくのだが、俺たちはなんとなくちらっと演説を覗いていく。
俺なんかは生徒会長の仕事自体に指して興味もないので正直智代の話を聞いても特にピンとこない。あるいは途中から来たからかもしれないが。だが周りを見てみると、結構集中して聞いているような奴もいたりして、反応は悪くない感じもする。
だが当然、俺のようにかなりぼんやり聞き流している奴らもいる。
「なあ」
「なんだ」
手前の男子生徒が小さな声で雑談を始めた。
「あの坂上って奴が、噂の…」
「ああ、前の学校で相当の不良だったって言われてるな」
「本当なのかな?」
「火のないところに煙は立たないんじゃないのか?」
「やっぱり、そうだよなぁ…。なんだかんだいって、この学校でもトップになりたいってことなのかな」
「実際、うちの不良ともつるんでいるみたいだからな」
「俺は嫌だぜ、学内が世紀末みたいになったらさ…」
…小声だが、こちらには聞こえる。
言いたい放題言ってくれてるな、こいつら。
「おい」
俺は手前の二人に声をかける。
それを見て、杏が咎めるような視線を送って、椋が慌てたように目を泳がせた。
…この姉妹は俺がここでケンカでも始めるとでも思ったのだろうか。だが、そんなつもりはない。
「ん…?」
「げぇっ! 岡崎!?」
声を掛けられた二人組みはこちらを振り返り…ひっくり返った。
……俺は何だと思われているのだろうか。
「おい、大丈夫か」
手を差し出す。
「おっとっと、お、岡崎くんの手を煩わせることはないっすよ、へへっ」
「いきなりキャラが変わってないか…?」
「いや、大丈夫…」
男子生徒は俺の手には振れず、起き上がると早足にその場を立ち去ろうとする。
「ちょっと待ってくれ」
「ま、まだ何か…?」
周囲は何事か、とこちらに注目していた。
結構な人手のおかげで、演説の中断になるような騒ぎにはなっていないようだ。が、こちらにもかなり耳目が集まっているような気がした。
そんな中で、俺は不安そうな部員たちの視線を背に感じながら、不安そうにこちらを窺う二人組みの三年生に向き合う。
「俺のことを悪く言うのは別にいい。自分でやってきたことだからな」
そう、俺のことはいい。俺は十分この学校に迷惑を掛け続けたのだ。全てを他者だと決め付けて、噛み付いては遠ざけた。かつての俺だ。
だが智代は違うのだ。
彼女はこの学校のために、多くのことを成して、多くのことをしようと思っている。
彼女は決して、俺と同じではない。ただそれだけをわかってほしかった。
「でも智代は智代だ。俺や春原との付き合いは抜きにして、あいつの言葉を聞いてやってほしい。それだけでいい。…頼むよ」
そう言って、頭を下げた。
「ええ、と…」
相手の男子生徒は戸惑ったような顔をしていた。
絡まれたと思ったのだろう、それがいきなり頭を下げられて、戸惑うのは当然かもしれない。
周囲も呆気に取られているようだった。
「わ、わかったよ…」
相手は気圧された様子で、曖昧に頷く。だが今はそれで十分だ。
「ありがとな」
「あ、ああ…」
礼を言っても、返事はそんなものだ。
「…行こうぜ」
変に注目を集めてしまっていた。俺は部員を促してこの場を去る。
ちらりと智代の方に視線を送ると、彼女も当然のように今の騒ぎには気付いていて、こちらを見ていた。
一瞬だけ、目が合う。
「…」
「…」
俺と智代の距離は近くはない。彼女の場所から、ここでどんなことがあったのか、どんな会話があったのかはよくわからないだろう。
だがそれでも、智代は少しだけ、笑った。
そしてまた、視線をさっと聴衆の方に滑らせながら演説を進める。俺たちが離れるに従って、生徒たちも再び聞くことに意識を傾ける。俺が頭を下げた男二人も、振り返って見ると、先ほどよりも真面目に話を聞いてくれているような様子。
「岡崎さん、お疲れさまです」
渚がにっこりと笑いかけてくれる。
「ん、ああ」
「朋也くん、とっても大人なの」
ことみもそう褒めてくれる。
「そうね、箸が転がっても恫喝していた人間とは思えないくらい、大人になったわよ」
そんなことで恫喝したことはない。
とはいえ、実際大人だし。さすがに精神年齢的には一回り程度違う高校生を怒鳴りつけたりはしない。基本的に。
だが、まあ、これだけ素直に褒められると嬉しくないわけはない。正直に喜ぶのも、なんだか癪ではあるが。
「いや…そうじゃねえ…」
俺は首を振る。
俺は大人になったわけではなく。
「歌劇部の部員になっちまったのさ…」
…。
「?」
「?」
周囲の女子たちは、首をかしげていた。
「んーっ、名ゼリフですっ」
そんな中、ただ、風子だけが喜んでいた…。