245
ちょん、ちょんと肩の辺りをつつかれ、目が覚める。
「…なんだよ」
目を開けると、しゃがみこんだ風子が俺の顔を覗き込んでいた。注意深く、窺うような視線。
「いえ、なんでもないです。いつも通りみたいなので、安心しました」
「…」
俺はぼんやりしたまま彼女の顔を見返した。
昨日の俺は、様子がおかしく見えたはず。それを風子は風子なりに心配してくれていたようだ。そう思って、少し嬉しくなる。
「いつも通り、ヘンな顔です」
「寝起きだからだっ」
…多分、心配してくれているのだろう。そう思うことにする。
こきこきと骨を鳴らして起き上がる。
外は、まあまあの空。平穏な朝の風景。
ふん、と俺は小さく息をつく。
昨日はまるで世界の果てまで迷い込んだような気分だったのに、地球は回り、日はまた昇っているのだ。
「岡崎さん。具合は、どうですか?」
「いつも通りだ」
「いつも通り、ヘンな人、ということでしょうか」
「…」
もうなんでもいい。
やれやれ、と俺は昨日のことを思い起こす。
たしかに、あれは不思議な体験だった。自分自身もそう思うし、傍から見ている分にも、やはり異様な振る舞いだったと思う。
昨日。
俺は、この時間にいるはずのない汐の姿を夕暮れに見て、その後を追い、まるでもうひとつの世界に迷い込んだようにあたりを彷徨い、夜の中に渚に出会った。あの時俺は、世界の不思議にじかに触れているような気分だった。
…だが結局、その時俺を包んでいた幻想は、あっけなく破れた。
俺は渚に声をかけ、従順に彼女の言葉を待っていたのだが…
その後彼女の言った言葉は、「こんばんは、岡崎さん。こんなところで、どうかしたんですか?」というものだった。
その瞬間、俺を包んだ魔法は解けて、よくよく見ると、そこは古河パンの目の前の公園だった。
渚は、部活が結成してから毎日そこで劇の練習をしているらしい。灯りがあるし、ほどよく人の姿もないので、場所としてはちょうどいいのだ。
帰ったはずなのに戻ってきた俺を見て、ちょっと演技を見せてくれただけのようだった。
それを聞いて、俺は激しく脱力してしまった。
あの瞬間、俺は本当に、あの少女が自分をまったく別の場所へと連れて行ってくれるような気がしていた。自分の知らない何かを、忘れているなにかを全て教えてくれるような気がしていた。それらはかなり鋭いな感覚として目の前に立ち現れていたのだが…なんだか全て、自分の勝手な妄想だったと言われてしまったような気分になった。
結局俺は適当に彼女に言い訳をして、自宅に戻った。そして風子に汐を見たかと聞いてみたが、風子の反応は冷ややかだった。
風子が言うに、俺が突然走り出したから驚いたけれど、汐の姿は見ていないようだった。
そもそも汐ちゃんは産まれてません、と至極もっともな反論を食らい、俺もそれを否定することはできなかった。
たしかに、それはそうなのだ。当たり前だ。
だがそれでも、俺はそんな常識的な判断がほしいのではなかった。
その時の俺はかなり微妙な表情をしていたのだろう、風子は付け足すように、自分が見ていないだけだから、本当のところはわからない、というようなことを言ってくれた。
その言葉に、少しだけ救われる。
少なくとも風子は、俺がただ妄想をみただけだ、などと断定するつもりはないようだった。
風子の意識は町に彷徨い、俺たちは過去に迷い込んでいる。
こんな状況だ、何が起こったって納得するつもりだ。もし汐がこの世界に紛れ込んでいても。
とにかく、俺はまだまだ、何も知らなすぎるのだ。
「…岡崎さん」
風子に声をかけられて、俺ははっと顔を上げた。
昨日の夜の続きのように、俺はまた泥に沈むように思考に囚われてしまっていたようだった。
「汐ちゃんのこと、考えていますか?」
「いや、今日の朝飯のことを考えてた」
「…岡崎さんは、とても食い意地がはっていますっ」
「育ち盛りなんだ」
「子供みたいです」
風子は呆れたようにつんと唇を尖らせて、背を向けて部屋を出て行く。
「…あの。風子でよければ、いつでも相談のりますから」
ちらりと振り返って、それだけ言葉を残してから。
「…」
俺は頭をかいた。さすがにあいつには、お見通しのようだった。
そりゃ、そうだ。
こんなこと、気にしないでいられるはずがなかった。
しかし、そればかり考えるわけにもいくまい。
俺はふたつ息をすって、気持ちを切り替える。
今日は今日、すべきことがあるのだ。
智代の噂の問題に、脚本だって早く進めなくてはいけない。考えるべきことは多い。
俺は立ち上がる。
また一週間が始まる。
246
「あ、岡崎さん。おはようございますっ」
「ああ、おはよ」
居間に入ると、芽衣ちゃんが朝食を食卓に並べているところだった。
風子はいない。恐らく、トイレか洗面所だろう。
「あの」
「ん?」
自分の場所に腰を下ろすと、トレイを胸元に抱えた芽衣ちゃんがそっと耳元に口を寄せた。
「体調とか、大丈夫ですか? 昨日調子、悪そうでしたけど」
「ああ、大丈夫だ。悪いな、心配かけて」
「いえ、元気ならよかったです」
芽衣ちゃんはにっこりと笑った。
昨日の俺の、この家に帰ってきてからの様子は体調悪いとかっていう次元のものではなかったはずだ。かなり取り乱していたとは思う。
調子悪そうというのも少し違う気もするが…正直に言うわけにもいくまい。
芽衣ちゃんは芽衣ちゃんで、やはり感じるものがあるのだろうか。
相手は中学生だ、あまり気を遣わせないようにしたい。
「おはよう。あぁ、朝ごはん、今日もおいしそうだね…」
「あっ、おはようございますっ」
親父がのっそり居間に入ってきて、挨拶を交わす。
「親父、おはよう」
「おはよう、朋也くん」
俺たちは言葉を交わす。ちらりと視線が合ったが、感情をやり取りする前に、逸らされる。
決して関係が悪いわけではないのだが、親父との関係改善の糸口がつかめない。このことも、考えないといけないことだ。
「…」
芽衣ちゃんは俺と親父を交互に見比べる。探りを入れるような視線。
「ご飯も今持ってきますね」
だがすぐにさっと席を立って台所の方に行ってしまった。
「…」
「…」
残された俺と親父は、手持ち無沙汰に座ってテレビに目をやる。
午後からは曇りがちだが、雨の降る心配はなさそうだ。
互いに、今日の天気についての意見を交換させると、それで会話の種も尽きた。
「…」
「…」
沈黙がおりる。もちろんテレビの音があっても、それよりも濃密な沈黙の気配。
そんな中で。
俺はふと、自分の母親の事を聞いてみたくなった。
なあ親父、お袋が生きてた頃も、こんな風に朝飯を待ってたりしたのか?
今のこの風景は、その頃の、あんたの幸せな頃の風景に少しでも似てたりはしないのか?
俺と親父はテレビを見ている。
大して興味もない今日のニュースを真剣に見つめる。
247
風子とふたりで通学路を歩き、坂の下には渚と智代が待っていた。
…なんだか、もはや、いつもの風景。
「おはようございますっ」
「おはよう」
待っていたふたりは、いつも通り、というように声をかけた。
こちらも挨拶を返して、集団になって坂を登っていく。
普段だったら春原を呼びに行ったり一緒にいたりするのだが、あいつは今日から三日間の停学だ。呼びにいくことはない。
…いなければいないで、ぽっかりあいた空白。
「岡崎さん、昨日はありがとうございました」
「いや、礼はいらないって。こっちこそあの人数で押しかけちゃってさ、さすがに騒がしかったな」
「そういう罰ゲームですので、えへへ」
渚はそう言って、照れたように笑う。
そういえば、あれはゾリオンの罰ゲームなんだっけ。言われて思い出す。
「…あの、昨日、あの後どうしましたか?」
そして、ちょっと心配するような表情になって聞いた。あの後、というのはあの夜のことなのだろう。
「普通に帰った」
「そうですか…」
渚はやはり、昨日の夜に会ったことを気にしているようだった。誰だってそうだろうな、とは思う。だが個人的にはあまり気にしないでいてほしいことだった。
あまりにわけのわからない問題だからな。
説明してやりたいが、こっちだって説明をしてほしいくらいだ。
ともかく、あまりこの話を続けても不信感と不安感をあおるだけのような気がする。自分の心の健康にも悪い。
俺は話を切り上げて、話題を演劇のことに移す。
渚も無理に、昨日の夜の話にこだわるつもりはないようで、平穏に、話題は移った。
…。
坂道を登りきる。
昇降口へと向かう道すがら、前を歩く女生徒の持つ鞄から、ひらりと何かがこぼれ落ちた。
ハンドタオルだった。
が、彼女はそれに気付かずに歩いていってしまう。
「あ、あっ」
渚は慌てて、地面に落ちたタオルを拾いにいくが…
「…よっと」
先に、俺がそれを拾った。
じっと、それを見つめる。落し物だ。
「岡崎さん、早くあの方に渡さないと、行っちゃいます」
「ああ」
俺はタオルを見ながら、考える。
…これは、チャンスだ。
昨日智代と話したこと。
俺が真面目な生徒に生まれ変わったような噂を流そう、という作戦。
朝から幸先がいい。うまく使って、学校の生徒に好印象を与えていくぜっ。
…。
「ようっ」
「あら、なんですか?」
「これ…落としたぜ?」
「キャッ! 私のハンカチ! 拾ってくれたのね!」
「当然さ」(いい笑顔)
「ありがとう! 不良なんて嘘だったのね! 素敵!」
…。
「…」
完璧なシミュレーションだった。
俺は駆け足でタオルを落とした女生徒に近付く。
「おい」
「え? …ひっ」
声をかけると、彼女は訝しげに振り返って…俺の顔を見ると、顔を引きつらせる。
…あれ?
どうやら、俺のことを知っているようだった。しかも、あまりいい印象は持っていないようだった。
好意的な反応ではないが、逆にだからこそ、ギャップで勝負ができるはずだ。
彼女の反応は少なからずショックだったが、今は気にしないことにする。
「おい、これ」
「あ、私の…」
差し出したタオルを見ると、反射的に手を出して…引っ込めた。
「ど…」
「?」
「どういうつもりですかっ」
「は?」
彼女は…不信感も露わに、というか、どことなく怯えた様子で俺から距離をとる。
声をかけただけで、随分な扱いだった。
というか、彼女からすれば、話しかけられただけでもういちゃもんつけられてるように感じるのだろうか。
「いや、待ってくれって。これ、あんたが落としたから…」
少し心折れながら、食い下がるが…
「失礼しますっ」
ものすごい勢いで、逃げていった。
「…」
俺は呆然と彼女の後ろ姿を見送った。
ぽかん…と棒立ちになっていると、後ろから連れが近付いてくる。
「…なぁ、別に脅してはないよな」
力なくそう問うしかない。
「うん、そう思う」
「えぇとっ、そのっ、ちょっとだけ、びっくりしちゃったんだと思いますっ」
彼女らのフォローがありがたい。
だがそれでも、怖がられているのは事実のようだった。まさか後ろから声をかけただけで逃げられるとは。森で熊に出会ったみたいな反応だ。
俺は肩を落とす。
あぁ、もぅ、マジ前途多難。
二年間かけて、培ってきた自分の悪評だ。それに悪びれることもなく、理解を求めることもなく、彼らと距離を置き続けてきた。
優等生の振りをして、一朝一夕にイメージアップなんて、やはりなかなか難しいのだろう。
智代のイメージアップでのこの方法はやめたほうがいいのかもしれない、などと一瞬考えてしまうが、すぐに考えを改める。
他に考えがあるわけでもないのだし、やってみなければわからない。
「これ、どうする?」
俺は今だ自分の手にあるハンドタオルを持ち上げて見せる。
「やっぱり、返さないといけないと思いますけど…」
渚はそう言って、言葉を濁す。
「坂上さん、あの方、お知り合いですか?」
「いや、知らない人だった。古河さん、ワッペンの色は見えただろうか?」
「いえ…」
「岡崎は、どうだ」
「いや、さすがに確認してない」
イメージアップに必死だったからな。
失敗したから、とんだピエロだが。
「あの…」
そこで、横に佇んでいた風子がおずおずと口を挟む。
「今の人、風子の知り合いでした」
「マジ?」
「ああ、そうなのか」
「よかったです」
俺たちの反応を見て、こくりと頷く。
だが…あれ?
かすかな違和感。
風子は、ほとんどこの学校に通っていないはずだよな?
ごく最近、知り合ったのだろうか。俺の知らないところで?
「三井さんです。今は、三年生です」
「へぇ…」
…三年生、ね。
「どういったお知り合いなんですか?」
「入学式の時に、少しお話をしました」
「そうなんですか」
「そんな前のことを覚えているなんて、記憶力がいいな」
「いえ、そんなことはないです。もっと言ってくれてもいいですが」
調子に乗り始めた!?
「ま、いいや。後で返しに行く」
「岡崎が行ったら、同じようになるんじゃないのか?」
「俺が行かなきゃ印象悪いままだろ。今度は後ろからじゃなくて、前から近付くようにするよ」
まるで、猛禽類に注意深く触れ合おうとしているような対応だ。向こうからすれば、こっちが害獣なんだろうが。
先が思いやられる朝だった。
だが、そこから始めなくてはならないのだ。
そう気を取り直して、俺たちは再び歩き出した。
俺はさっきの女生徒を思う。風子の知り合いで、三年生。
多分彼女は、風子が短い学校生活の中で作った友人なのだろう。
だが…向こうからすれば、風子は入学直後のごく短い時間を過ごしただけの人間に過ぎない。
彼女は今も風子のことを覚えているのだろうか。
もし覚えていてくれるならば、もう一度改めて友人になってほしい。そして、彼女にも、風子に協力してやってほしい。
俺は、そう思った。