folks‐lore 4/27



228


目が覚める。


薄く目を開けると、外は明るい。


今日は、日曜日。いい天気のようだった。


頭はまどろみ。真綿でも抱いているような気分。


ちらりと時計を見ると、いつも起きている時間だった。


今日は、朝、どうなんだろう。いつもの時間に朝食なのだろうか。あるいは休みの日くらい、寝坊していても許されるのだろうか。


…なんだか、こうやって寝坊するの、久しぶりな気がするな。


もう少しだけ寝ていよう、誰かが起こしに来てくれるまで。そんな気分。


それはなかなか、幸福な気持ちだった。


全ての悩みも何もなく、胎児のように、待ち焦がれていればいい。



…。



やがて、俺の部屋にノック。


「岡崎さーん?」


扉越しに、芽衣ちゃんの声が聞こえた。


俺は少しだけ布団に未練を感じながら、起き上がる。


いつまでも眠っていたいが、そういうわけにもいかないな。


「ああ、起きてるよ」


俺は、そう答えた。





229


芽衣ちゃんに起こされて、朝食をとる。


さすがに今日は智代が来ているなどということはなく、俺と風子と芽衣ちゃんと親父で食卓を囲む。


「そういえば、お父さんは昨日の朝、なにか用事があったんですか?」


にっこり笑った芽衣ちゃんが、もそもそと飯を食べる親父に質問。


親父はいつものように穏やかな、だが少し困ったような表情で茶碗をテーブルに置く。


「ああ…昨日は、ちょっと頼まれごとがあってね」


「あんな朝から、大変ですねっ。よくあるんですか?」


「めったにないね。でも、断るのも悪いからね」


「せめてお弁当くらい用意できればよかったんですけど。ご飯とか、ちゃんと食べましたか?」


「そういえば、食べなかったかな…」


「それじゃ、体こわしちゃいますよっ」


「…」


「…」


俺はぼんやりと芽衣ちゃんと親父の会話を聞いていた。


…なんか親父すら尻にしかれているような気がするんだけど、気のせいだろうか。


なんだかあっという間に、この家の中の権力の均衡はすごいことになっている。


「…今日は」


「ん?」


親父が俺のほうを見て、口を開いた。


俺は顔を上げる。


「朋也くん、今日は、あの子はこないのかい?」


「あの子って…智代?」


「ああ、そんな名前だったかな」


「いや、こないと思う。今日は学校ないから、さ」


「そうかい…」


親父はそう言うと、湯飲みの茶を飲んだ。


俺は顔を伏せて、味噌汁を飲む。


互い、すする音。


湯気の向こうで、芽衣ちゃんがじっと俺を見ている。風子はぼんやりと俺を見ている。


「朋也くん」


「…」


一息ついた親父が、再びこちらを見た。


「その子は、朋也くんの…」


「…」


「…」


「…」


一瞬、間。


「…友達かい?」


そして親父は、そう続けた。


拍子抜けするような言葉が続いて、俺は滑りそうになる。


…ここは普通、恋人か、などと聞くような状況じゃなかったか? 別に恋人じゃないけど。


左右を見ると、風子はふう、と呆れたように顔をぷいとさせ、芽衣ちゃんはテーブルに突っ伏してなんだかいいリアクション。


…ああもう、なんだか見世物にされているような気がしてきたぞ。


「あ、ああ、まあそうかな。友達だよ」


「そうかい…」


慌ててそれに答えると、親父は小さく頷いた。何度か、小さく頷いた。


俺はその表情を窺う。


だが、何を考えているのか、どうにも俺には読めなかった。


…それでも、親父が話しかけてくることが、俺はなんだか新鮮な気がしていた。


今交わした親父との一言二言は、今までにはない質感が伴っていたような気が、して、いた。


「今日は坂上さんとかも一緒に、部活のみんなでお昼から遊ぶんですっ。あ、わたしとふぅちゃんは部員じゃないんですけど」


「はい、風子とっても忙しいんですが、岡崎さんがどうしてもと言うので」


「それは言ってない」


「昨日わたしの兄が部員になってくれるって言ってくれて、やっと部員が揃ったんです」


「芽衣ちゃんが一晩でやってくれました」


「いえ、わたしは何もしてないですっ」


「…」


俺の意見は黙殺されていた。というか聞こえてもいないのだろうか。つい埴輪みたいな顔になってしまう。


「部活は順調かい?」


親父は目を細めて、芽衣ちゃんにそう聞く。


「えぇと、始めたばかりで大変そうですけど…チームワークは完璧ですっ」


芽衣ちゃんがそう言うと、親父は口元をほころばせる。


傍から見ていて、親子に見えるような組み合わせだ。


「すごく楽しそうですし、発表会が楽しみです」


「そうかい…」


親父は芽衣ちゃんの言葉に、頷く。


「部活は、楽しそうかい…」


そうして、何度も、頷いていた。







230


朝食のあと、軽くいくつかの家事をして、俺たちは家を出た。


昼の一時に、商店街で待ち合わせだ。


だがその前に、せっかくなのだからと芽衣ちゃんや風子とぶらぶらすることになった。


必然的に、足は商店街のほうへ向く。


いつもは制服で通う道のりを、今日は私服。


いつの間にか制服は身に馴染み、私服(しかもこの服は随分昔に処分したものだ)で歩くことにちぐはぐな浮遊感めいたものを感じる。


「やっぱり、ここって都会ですよね」


「…嘘だろ?」


ちょうど山を迂回する道を歩いている時に芽衣ちゃんがそう言って、俺は脊髄反射にそんな答えを返してしまった。


「いえ、ほんとですよっ。わたしの家の方だと、もっと酷いですよ。まず街灯、ないですし」


そう言って指し示されるのは、先日芳野さんと建てた街灯。


「街灯がない…」


「基本的に、畑なので」


「へぇ…」


「それにほら、ここになにか建つみたいじゃないですか。発展してるんですよ」


芽衣ちゃんはそう言って立ち入り禁止のロープの張られた場所を見た。


俺もその視線につられて、目を移す。


たしかに、山の裾のあたりはまだ工事は始まっていないにせよ、平らに均されている。


…ここには、渚の働いたファミレスが建つのだ。ああ懐かしい未来。


「ここは、ファミリーレストランができるんですっ」


しみじみ感懐にふけっていると、風子が興奮して芽衣ちゃんにぎゅっと抱きつく。


「あ、そうなんですか?」


「はいっ。あそこのハンバーグは絶品ですっ。きっと、ものすごいシェフが常駐しているんだと思います」


「あそこチェーン店だぞ、おい」


「へぇ、なにが建つって表示はないですけど、もう有名なんですね」


「…」


「…」


俺と風子は失言に気付く。


「噂だ」


「はい、噂です」


冷静に切り抜けた。


「…?」


芽衣ちゃんは訝しげな表情で、俺と風子を交互に見比べた。


だが、気にしないことにしたのか、大したことではないと思ったのか…再び溌剌とした表情に戻る。


「ですけど、うちの近くってコンビニも結構行かないとないんです。お兄ちゃんとか、それが嫌で出て行っちゃったんですけど」


「それでこの町っていうのも、微妙だな」


「そんなことないですよ。うちの実家と比べたら、文化レベルが違いますよ」


…そんな会話をしつつ、穏やかな東風の下を歩いていく。



…。



「ん?」


俺は空を見上げる。


いや、正確には、空をシルエットにした電信柱、その上の人影。


それは、芳野さんだった。


今日は朝から現場のようだ。何故か、こっちはサボっているような気がしてきて、申し訳ないような気分になった。


「あ。昨日の人ですね。お知り合いの」


「ああ、まあ」


曖昧に答えて、芳野さんを見上げていると、視線に気付いたようでこちらを振り返る。


俺は軽く頭を下げた。


芳野さんは昨日のような簡単な反応ではなく、するすると電信柱を降りてくる。


今日は、そこまで仕事が詰まっていないのだろうか。まあ日曜だから、たとえ入ってもそこまでの仕事量にならないのが普通だ。それでも先週の日曜も出だったから、今は忙しい時期なのだろうか。


春のこの時期、なにかあったっけ。あるいは別の大口の受注があって、そのしわ寄せがきているのだろうか。


…自分が働いているわけでもないのに、そんなことをつらつらと考えてしまう。


「よぉ、岡崎」


「ちっす」


地上まで降りてきて、いつものように作業着の芳野さんがかすかに笑みを浮かべる。


俺はそれに答えて、頭を下げる。


「久しぶりだな…といっても、昨日顔は合わせているが」


「芳野さん、今、忙しいんですか?」


「いや、今日はそれほどじゃない。この間みたいに手伝ってもらわなくても、大丈夫だ。それに今日は、ひとりじゃないみたいだからな、手伝わせるわけにもいかない」


「わ、わ…」


「あ…」


芽衣ちゃんは何故か慌てて俺の後ろに隠れる。風子はぽかんと、芳野さんを見つめた。


風子の反応は…まあ当然か。こいつにとっては義理の兄になる人だ。まさかこんなところで出会うとは。


だけど芽衣ちゃんはどうしたのだろうか。よくわからない。


「部活はどうだ?」


「ぼちぼちっす。昨日やっと部員が揃って、今は脚本とかを詰めてる感じですね」


「脚本?」


「部活、演劇なんです」


「ああ、そうか。岡崎は役者なのか?」


「いや、俺は裏方ですよ。演技とかやったことないんで」


「そうか。部活もこれから忙しくなるな。たしか、ゴールデンウィーク明けが創立者祭だろう?」


「はい」


「…あ、あのっ」


会話をしていると、後ろに隠れていた芽衣ちゃんが意を決して、というようにひょっこり顔を出す。


「あの、もしかして、もし違うならすみませんっ、そのっ、芳野祐介さんですかっ?」


「ああ…」


「あの、本物のっ?」


「…」


芳野さんは目を閉じてくいっと被ったヘルメットを目深にした。


…そういえば、芳野さんは昔、有名な歌手なんだっけ。


芽衣ちゃんはファンの世代ではない感じがするが、知っているのか。


「たしかに俺は芳野祐介だが、恐らく、君の知っている男ではない」


「あ…」


芽衣ちゃんは、その反応にか細く息をついた。


…芳野さんは確かに昔は有名な歌手だったが、たしか挫折するような感じで歌をやめてしまったという話を聞いたことがある。


芳野さんにとって、過去は苦いものなのだろうか。


俺がかつて、芳野さんの過去を聞かせてもらった時、あれは失敗談として話されたような気が、する。


「あ、あのっ、すみません、わたし…」


芽衣ちゃんは芳野さんの冷たい反応に、慌ててなにか言おうとする。だが、何も言えない。


芳野さんはそんな芽衣ちゃんの姿を見て、心苦しそうに顔をゆがめる。


「すまない、きつく言うつもりはないんだがな…。だが、俺と話していても、失望するだけだと思う。悪く思わないでくれ」


「いえ、その…っ、げ、元気な姿が見れて、良かったですっ。わたしこそ、その…こんなこと言うとっ、迷惑なのかもしれないですけどっ」


ぽかんと芳野さんは芽衣ちゃんを見る。


芽衣ちゃんはぎゅっと俺の後ろから体を乗り出す。


「わたし、ずっとずっとファンでしたっ! すごく、芳野さんの歌が好きでしたっ! あ、い、今も好きなんですけどっ、今も、毎日じゃ…ないですけど、週に一度は、芳野さんのCD、必ず聞いてますっ。辛いことがあった時とか、そういう時に聞くと、すごく、頑張ろうって、思いますっ。だから、えっと…」


ぎゅっと拳を強く握った。


…というか、思いっきり俺の服が握られて皺が皺が。


「がんばって、くださいっ」


だが、いっぱいいっぱいになりながら、だけど言葉を紡ぐ芽衣ちゃんの邪魔をしようとは思わなかった。


「…」


彼女の言葉を聞いて、芳野さんは、ヘルメットのつばを片手で持ち上げる。


そしてじっと芽衣ちゃんを見た。


「俺は、君の言う芳野という男ではない。俺はもう歌は歌っていない。だから、その言葉を歌手として受け取ることはできない」


「あ…」


芽衣ちゃんが肩を落とす。


「だから、君の言葉は、一人の人間として、受け取っておこう。ありがとう」


「あ…っ」


芽衣ちゃんが、ぱっと顔を上げた。


芳野さんはそれを見て、少しだけ口の端を緩める。


「君が辛い時に、前に進んでいけるよう、俺も祈っていよう…」


「あ、ありがとうございますっ」


芽衣ちゃんが嬉しそうに笑って、芳野さんも少し笑った。


「岡崎、この子も部員なのか?」


「いや、部員の妹っす。そいつ、寮生なんでうち、じゃなくて、風子のうちに泊めてるんです」


「…岡崎さんっ」


ばしっ、と後ろから風子にはたかれて、失言に気付く。


しまった、風子の名前を出すのはまずかったか!?


「あ、いや…知り合いの…プーの家に泊めてる…」


「…岡崎さんっ」


もう一発風子にはたかれるが、ここは我慢だ。


「ああ、たしかに寮生の家族でも、女子禁制だからな。…そういえば、君の名前はなんていうんだ」


「あ、わたし、春原芽衣っていいます!」


「…」


幸い、芳野さんはまずい部分は聞き流してくれていたようだった。胸を撫で下ろす。


芳野さんは芽衣ちゃんと二言三言、部活の事などを話している。


「…岡崎さん、気をつけてくださいっ。取り返しがつかなくなったらどうしてくれるんですかっ」


そんな様子を眺めつつ、風子が屑人間を見るように文句をつける。


「あ、いや、悪い。なんかついつい」


「最悪ですっ」


「もうしないって」


「信用できません」


風子はぷい、と顔を背けてしまった。俺はげんなりする。


「岡崎、部活は順調に進んでいるんだな」


そこへ、芳野さんが話しかけてくる。


表情がわかりづらい人だけど、上機嫌な様子だった。


「あ、はい。まだ始まったばかりですけど」


「だが、部員が揃ったんだな。おまえが頑張ったからだ」


「いや、そんな」


…なんだか、芳野さんにこうして面と向かって褒められるとかなり照れる。あまりそういう経験はない。芳野さんは俺をその辺の学生として接しているから、当然あまり厳しく当たったりもせず、ある意味甘やかしてくれている。そう思っても、やはり嬉しい。


「ありがとうございます。がんばります」


「ああ、俺も応援している」


「…」


ぺこり、と一礼する。


「これから部活の集まりなんだろう、頑張れよ」


「はい、ありがとうございます」


「ありがとうございましたっ」


「ああ」


芳野さんはちらり、と腕時計に目をやる。


「おっと、ついつい話し込んでしまったな…」


「あ、すんません、邪魔しちゃって」


「いや、俺こそ楽しかったよ。それじゃあな、二人とも」


芳野さんにそう言われて、俺たち三人は歩き出す。


憧れのアーティストとまさかの出会いを経験して浮かれ気味の芽衣ちゃん、そして軽く褒められてやはり浮かれている、俺。そして少し心ここにあらずな風子。


俺たち三人は、どことなくぼんやりした風に、春の空の下を歩いていった。



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