207
放課後になった。
さすがに就学時間中に強襲、などということはなかった。結構何でもありだから、とビビッてもいたのだが。
だがさすがに、校内に入ってくるというのはないかもな。
随分長いことあの人と付き合いがあったけど、思い返してみると学校に忍び込む、なんて変態みたいなことはしていなかったような気がする。
…実の娘のウェイトレス姿を盗撮、などという変態行為はしていたが。
そう思い、なんだかあの時のことが懐かしく思い出される。
渚が新しくできたレストランでバイトを始めた時のことだ。
たしか、仁科に誘われてバイトを始めて、俺とオッサンで渚の様子を見に行って、彼女がナンパされるのを見て喧嘩したような…。
…あれ? そういえば、渚のウェイトレス姿を見に行った記憶はあるけれど、仁科とか杉坂の姿は全く記憶にないぞ。
「…」
思い出そうとするが、やはり無理だった。
まあ、あの頃は別にあいつらと親しかったわけでもないしな。しかしそう考えると、今俺が立っているこの場所は、あの頃とは既に随分違うんだな、と思ってしまう。
「岡崎、岡崎」
クラスメートが部活に行ったり帰宅したりとせわしない教室の中でぼんやりしていると、隣の春原が声をかけてきた。
「おまえ、優勝したんだって? 命令、なににするの?」
こいつの興味は、そういうところ限定のようだった。
「あのな、まだ一人残ってるだろ。俺たちを誘った男だよ」
「ああ、そういえばまだ残ってるんだよね…。でも、ま、智代にも勝ったんだろ? 負けるわけないって」
「…」
智代に対しては、むしろ勝ちを拾った、という表現の方がしっくりくるのだが。
「勝ったら勝ったで、その時に考えるさ。ていうか、渚と一緒に考えることになるだろうし、おまえが言いたいような無茶はできないだろ」
「ああ、そうだね…」
春原はそう言うと、拍子抜けしたように肩を落とす。
俺は再び、ぼんやりと頬杖をついた。
「なにおじいさんみたいなカッコしてんの?」
「杏」
「まだ戦いは終わってないんでしょ。しゃんとしなさい」
「わかってるよ。ていうか、学校の中だったら別にいいだろ」
「それもそうね。でも、あんたも相手の人も、お互いの顔わかるの?」
「…」
たしかにそうだった。
「あ、岡崎の顔だったらわかってると思うよ」
春原が口を挟む。
「なんでだよ」
「僕の生徒手帳に昔の写真が入っててさ。去年のクラス写真。岡崎は誘うつもりだったから、言っといたよ」
「…」
余計なところで気を回す奴だった。
「それじゃ、相手の顔がわからないこっちが不利じゃない」
「…いや、なんとなく顔はわかるよ」
「そうなの?」
「まあ、な」
「ま、いいけど、頑張りなさいね。ていうか、あたし顔も知らない人の命令なんて聞きたくないし。それと、あたしと椋、今日の部活もちょっと遅れるから。それじゃね〜」
言いたいことを言ってしまうと、杏はひらひら手を振って歩き去り、手近の女子に話しかける。
彼女らはきゃいきゃいと創立者祭の話をはじめる。
いつの間にか教室前方はスペースが空けられ、そこで大きな画用紙にイラストを描いたり、何人かの女子で固まって縫製をしたりしている。
考えてみれば、あと二週間で創立者祭か。そんな実感がひしひしと伝わる光景だった。
「岡崎は、これから部活?」
「あぁ、そうだな」
ひとまずは、渚が来るはずなので待つことにする。少し遅いから、なにかあってホームルームが伸びているのだろう。あるいは、掃除当番かもしれない。
とりとめもなく、そんなことを考えていると…
ガラッ!
勢いよく、傍らの「窓」が開いた。
「え?」
俺がぽかんと、すぐ左側に目を向けると…
もはや見慣れた不良親父の顔があった。
…というか、オッサン!?
「なんだなんだ!」
「誰!?」
突如現れた不審者に、教室は騒然。…当たり前だっ。
サングラスをかけたオッサンはざっと教室の中に目を走らせ俺の姿を見ると、目にも留まらぬ速さで拳銃を取り出して胸を打ち抜く。
だが、音はならない。オッサンの顔が訝しげに歪む。
そうか! この人はこっちがチーム戦をやっていることを聞いていないのかっ。
「く…っ」
俺も慌てて銃を取り出すが、オッサンは既に身軽に教室の中に身を躍らせていた。
そして、あっという間に教室を駆け抜けて行く。
…一瞬の出来事。
教室に残っていた生徒全員が放心したように教室の出口を見つめた。
だがすぐに、やってくる…半狂乱。
「誰だ今の!?」
「せ、先生を呼んでくれっ」
「岡崎が撃たれたぞーーーッ!」
「マジで!?」
「岡崎が…死んだ!?」
「死んでねぇ!!」
恐慌状態になった男子生徒の頭を引っぱたく。
「ちょっと落ち着け、おまえらっ」
「岡崎、大丈夫かっ?」
一人の男が近くによって来た。というか、前の席の男だ。
「別に、怪我はねぇよ」
「そうか、そりゃよかった。心配したぜっ」
「…」
男に心配されても嬉しくなかった。というか、おまえは俺のなんなんだ?
「岡崎、今の男だよっ。僕を誘ったの」
春原が鼻息荒く顔を寄せる。
「ああ、そうらしいな…」
俺は席につく。オッサンが出て行った出口を見やる。ドタバタと入り乱れる生徒たちの体の隙間から、開け放たれたドアが見える。
クラスメートたちは浮き足立ってわいわいと騒いでいる。
一部の生徒はこのニュースを撒き散らしにか、外へ出て行く。こっちを窺って近付いてきたり、グループになって話し合いを始めたりする奴もいる。
「あぁ、あれが最後の相手なのね…」
騒ぎの中、いつの間にか杏が横にやってきていた。
「な、なんだかすごいです…。たしかに勝負ですけど、ここまでくるなんて」
「ていうか犯罪だし」
椋の言葉に、杏がぴしゃりと切って捨てた。
「…」
俺は黙る。
言えない…。
あの人が義理の父親(になる)だなんて、言えない…。
「ねぇねぇっ、岡崎くん、あの人知り合い?」
「というか、なに? ヤクザの抗争?」
混乱の中心が俺にあるらしいと気付いた何人かが尋ねる。
というか、ヤクザ…?
俺は一体どんな人間だと思われているのだろうか?
「いや、違う」
「ただのお遊びよ。ほら、これ」
杏が間に入って説明してくれる。お遊びで、おもちゃの銃撃戦をやっている、という話だ。俺より数段にうまく場を取りまとめてくれた。
話を聞くと、クラスメートは意外に好意的に受け止めてくれたようだった(杏が説明してくれたこともあるし、彼女が参加していたことも大きいだろうが)。
「そういう遊びをするなんて、岡崎くんて意外にお茶目なところあるのね」
「…」
特に話した子もない女子からそう言われて、俺は黙り込んでしまう。
お茶目…? なんて答えればいいのか、よくわからない。
「あの…」
ふとそこに遠慮がちな声がして、顔を上げると渚が教室の騒乱に戸惑った様子で傍らまでやってきていた。
「あぁ、渚」
「どうかしたんですか?」
さっきの襲撃事件で一時的に教室の空気がハイになっていて、他のクラスメートが続々とやってきて渚に説明を始めた。
まだ互いに自己紹介もしていないような奴も多いのだろうが、渚は今日は休み時間の度に教室に来ていたから顔がわかっているのだろう、抵抗なく熱に浮かされたように彼女を話題に取り込んでいく。
渚はその勢いに気圧されつつも、うんうんと頷きながら彼らの話を聞いていた。
…。
まだ喧騒は続いているが、帰る生徒は三々五々教室を後にしていた。創立者祭の準備をするグループが、二十人くらい前のほうであれこれと話をしたり、作業している。
二十人。ここに部活に参加していていない生徒、外に買出しに行っている生徒も加えれば、結構な人数が集まっている計算だろう。男子はまだ少なめだが。だがそれにしても、随分集まったな。
「わたし、来る途中、すごい勢いで走ってくる男の人を見ました」
落ち着きを取り戻しつつある教室の様子を見渡しながら、渚がぽつりと呟く。
「ああ…。私服で、サングラスかけてた?」
「はい」
「それが、俺たちの敵だ」
そしておまえの父親でもある。
…というか、俺の父親でもある。うん…。
そう思うと、なんかすごく微妙な気持ちになってきた。いや、今はまだ他人なのだが。
「そうなんですかっ」
渚は緊張した表情で、ぎゅっとブザーの辺りを押さえる。
「でも、驚きよね。まさかここまでくるとは思わなかったわ」
「うん…。校門とかで待ち伏せなら、わかるんだけど…」
傍らの藤林姉妹が口を挟む。
「はいっ。きっと、ものすごく真剣に戦っているんだと思います」
それも嫌な大人だよな…。
「見覚えのある人だった?」
「いえ、知らないと思います」
「…」
アホの子がここにいた。アレはおまえの親父だっ。
…まあ、以前(というか、未来に)ファミレスに変装して行った時も気付かなかったからな。
そう思うと苦笑してしまう。
相変わらずだ。過去なのだから、当たり前なのだが。
「岡崎さん。これからどうしましょう。部活に行きますか?」
渚は伺うように俺を見た。
俺は少し考える。
「そうだな。部活中に狙われても嫌だしさ、先に勝負を決めちまおうぜ。そのあとでも練習の時間はあるだろ」
「はい、わかりましたっ。ですけど、戦うといっても、どうしましょうか?」
「こっちから打って出たほうがいいよっ」
「ま、そうね。相手からすれば同じ制服の生徒ばっかだから狙い辛いだろうし」
「ですけど、もしかしたらもう学校の外に出ているかもしれません…」
口々に、春原、杏、椋が言う。
「…多分、相手も学校にはいると思う。向こうも仕事があるだろうし、長期戦はできないだろ」
時間がかかれば、早苗さんにバレるし。
「だけど、戦うにしても人混みは危ないかもしれないな。多分、あっちは戦い慣れてる」
「そうかもしれないわね…。それじゃ、障害物がない場所のほうがいいかしら?」
「校内で、障害物がない場所…グラウンドか、屋上ですね」
「いやいや、委員長、屋上は意外に物があるよ。給水タンクとか、エアコンの室外機とかね」
「…陽平、詳しいわね」
「こいつ、いつもそっちでサボってるからな」
「ホントどうしようもない屑ね」
「な、なんか酷くない…?」
春原は固い笑顔で汗を流した。
「…ま、とにかく、グランドへ行こう。それくらいしか、選択肢はないだろ」
「はい、わかりました」
俺の言葉に、渚は頷く。
…これから決戦に行くのだ、その表情はやはり硬かった。それも仕方がない。
「あたしたちも行ったほうがいい?」
「いや…おまえらには、やることがあるだろ」
俺は教室を見回す。
俺たちを少し遠巻きに見て、こちらをうかがっている生徒が何人もいた。
彼女らは、俺を見ているわけではない。
杏と椋を、待っているのだ。
彼女らには彼女らの仕事がある。彼女らがいなければ放課後の創立者祭の話し合いは進まない。
そして俺と渚には、最期の決戦が待っている。
「そうね…」
「私たちは、行けないです…。すみません」
「いえっ、おふたりとも、すごく忙しいですしっ」
「ああ。結果報告に来るから、待っててくれ」
「そうね。優勝の報告、楽しみにしてるわよ」
随分、期待されているようだ。
杏の言葉に、俺は笑って歩み始めた。渚が、それに続いてやってくる。
「行ってくる」
「ええ」
「岡崎くん、渚ちゃん…いってらっしゃい」
「岡崎君、何か知らないけど、頑張って!」
「あぁ、よくわからないけど、おまえならできる!」
「風子ちゃんによろしく伝えてくれっ」
なんとなく面白そうな気配を感じてか、クラスメートの激励の言葉をもらった。
俺はますます、笑ってしまう。
だが同時に、闘志が湧き上がった。
俺は負けるわけにはいかない。勝利を待ってくれる人がいるのだ。
「あ、岡崎、僕も付いてっていい?」
「…おまえ、暇人な」
「ほっといてよ。おまえの戦い、見届けてやるからさっ」
春原も加わって、俺たちは教室を出る。
208
既に脱落している春原を先頭に立て、渚を庇いながら校舎を抜ける。
放課後だ、生徒は多い。こちらも、オッサンも、互いに陽動には事欠かない状況だ。だが場慣れという意味では、こちらが不利。
早足に校舎を出て、グラウンドへ。
まだ部活は始まっていないので、グラウンドに入っても咎められることはない。
幾つかの部が隅のほうを周回しながらランニングを始めているくらいだ。
いっちにー、いっちにーと掛け声が空に響く。
「ひとまずは、ここで向こうの出方を待とうぜ」
「はい、わかりました」
「怪しい奴はいないみたいだけどね」
「ああ。だけど、油断したら負けるぞ」
「そうだね。相当慣れてる感じだったからね…」
いっちにー、いっちにー。
「…」
「…」
いっちにー、いっちにー。
グラウンドの隅のほうでランニングをしていた野球部が…こちらに向かってくる。
というか、全速力だった。
「お、岡崎さん…っ」
「ああ…」
怪しい…。
というか、仕掛けてきやがった!
俺は後ろを振り返る。そこには、山積みになった雑誌。
…野球部員が、なんとそそのかされたか想像がついた。
「お、岡崎、やばくないっ?」
「ああっ。くるぞっ」
俺たちは、慌てて脇へ避ける。野球部員が、砂煙を上げて通り過ぎていく。俺は渚を庇う。銃を取り出す。だが、撃ち抜く対象が見えない。
そして…
砂煙が晴れた時、そこにはひとりの男が立っていた。
209
傍らには春原が立ち、俺は渚を庇う格好で立ちはだかる。
男…オッサンは、油断なく銃口をこちらに向けて、少しだけ距離をつめる。
そして六、七メートルの距離で立ち止まった。
俺たちは向かい合う。
…オッサンとは、随分久しぶりに会ったような気がしていた。
この過去に紛れ込んでから、という意味だけではない。
あの頃、俺が汐の看病に付きっ切りになっていた頃。
あの頃から、俺は世界には汐と二人しか存在していないような気がしていた。
もちろんオッサンも早苗さんも看病に来てくれた。だが、俺にとってそれはほとんどないも同然だった。自分のことに精一杯で、認識できていなかったのだ。
俺にとってオッサンの姿は、
一番記憶に新しいオッサンの姿は…
保育園の父兄参加のマラソンでああだこうだ言い合っている、思い出だった。あの時が、多分最後の、幸せな記憶。
「小僧、おまえ胸にブザーを入れてねぇな」
声を掛けられて、俺ははっとする。一瞬、ボーっとしていた。
オッサンはサングラス越しに目を細め、鋭い眼差しを向けていた。
「ああ、入れてない。あんたには言ってなかったけど、この学校の中の参加者で、別のルールで戦ってたんだよ。ブザーを持つ方と銃を持つほうで組んで、チーム戦」
「ちっ、なるほどな…」
「あと残ってるのは、あんたと俺たちだけだ」
「へっ…。この学校の中じゃ、おまえが勝ち残ったってわけか」
「…この学校の中じゃ?」
「ああ…そうだ。参加者は、この学校だけじゃない…」
オッサンは銃を日にかざす。
陽射しは傾いてきている。春の陽気の風が吹く。
きらり、と、おもちゃのはずなのだが銃口が鈍く光ったような気がした。
「おまえらがこの学校で争っている間、俺は商店街の奴ら、二十人を相手にしてきたんだよ…」
「…ちょっと待ってくれ」
俺は、頭を整理する。
「参加者は、この学校以外にもいるのか?」
「ああ、そうだ。テメェらみたいな素人じゃねぇ…。顔見知りの商店街の連中は、全員参加している」
「…」
この人…アホだ! 絶対に今日はまったく仕事してねぇッ!!
というか、今日は商店街、機能してねぇッ!!
「小僧、てめぇみたいに素人同然の奴らを相手にしてきたわけじゃねぇ…。一年前、俺に敗れた日から…過酷な練習を積んできた奴らを倒して、俺はここまできている…」
ぎらり、と鋭い眼差しを俺に向けた。
「てめぇとは背負ってるものの桁が違う…」
「…」
ここで、『あ、早苗さん』などといえばかなり動揺させられるだろうが、さすがにそういうわけにもいかない。卑怯なのは構わないが、知っているはずがない情報だからな。
「まぁ、てめぇもよくやってきたよ…。それに、そっちはおまえら二人だしな。最後くらい、正面から戦ってやるよ…」
「…」
「お、岡崎さん…」
後ろで渚が不安そうな声を上げる。たしかに、経験の絶対的な差。今さら埋めることもできない格差。
だが、ここまできたのだから、とにかくぶつかるしかない。
そんなことを考えていて、はっとする。ひとつだけ、策が思い浮かんだ。
今の状態、渚は俺の後ろに隠れていて、オッサンは彼女に気付いた様子はない。ならば、渚の姿を見せて動揺させれば、隙が生まれるのではないか?
緻密な作戦ではないが、それはひとつの手だと思う。
…よし。
俺は心を決める。
「渚」
小声で彼女の名を呼ぶ。
「作戦があるんだ」
「はい」
「あえて渚が前に出て見てくれ」
「…えぇっ?」
「いや、ちょっとやってみてくれ。なんとかなるからさ」
「えぇと、岡崎さんがそう言うなら、やってみますけど…」
渚はそう言うものの、不安そうだった。それはそうだ、自ら進んで首をささげる行為だからな。
…というか、渚は未だオッサンの正体に気付いていないようだった。この子アホの子です。妻です。
「てめぇら、何をごちゃごちゃ言ってやがる」
「別に、なんでもないさ。さぁ、そっちこそかかって来な」
「へっ…。小僧、調子に乗るなよ…」
オッサンはそう言うと、サングラス越しに目を細め、ぐっと銃を握る。
そして…
フェイントを織り交ぜながら、駆ける。
…速い!
いや、速さだけならば智代のほうが速い。
だが…巧い!
ステップが独特なのか、動きが目で追えない。
さすがだぜ…オッサン!
だがこちらにも、最後の手段(娘)がある…!
「渚ッ!」
「は、はいっ」
俺は体を横にずらして。渚が慌てたように前に出てくる。
「…なんだとぉぉーーーーーーッ!!?」
渚の姿を見た瞬間、オッサンが錐揉みしながら脇を飛んでいった。
そりゃ、そうなるよな…。だが、今がチャンス!
俺は銃を構える。銃口を引く。
だが、かなり体勢を崩したオッサンだが、それはさるもの、巧妙に胸ポケットを庇って当たらない。
「ちっ…」
俺は舌打ちをする。作戦は、失敗だ。
オッサンには動揺しても、それ以上に培われた勘があった。
俺は再び渚を庇うように立ちはだかる。オッサンは体勢を立て直して再び向き直る。
「マジかよ…」
油断なくこちらを窺いつつも、呆然としていた。
だがすぐに、納得したように小さく頷く。
「なるほどな…。おい、金髪」
「ぼ、ボクっスか?」
横で成り行きを見守っていた春原だったが、オッサンに声を掛けられ、冷や汗を流しながら答えた。
「あぁ。テメェが言ってた部活の連中ってぇのは、こいつと、他の参加者のことか?」
「そ、そうっス」
「なるほどな…」
オッサンが顔をゆがめる。苦笑いのような、表情。
「おい、小僧」
視線を、俺に向ける。
「名前は、なんていう?」
「…岡崎、朋也」
「へっ…」
口を、歪める。
「青二才みてぇな、名前じゃねぇか」
「は…」
俺も、笑った。
青二才で十分だ。
…なんだか俺は、楽しくなってきていた。
オッサンと真っ向から向き合っているこの状況。
傾く日差し。最後の戦い。俺の後ろには守るべき人がいる。手には戦う武器がある。
できすぎている、とさえ、思う。
胸が高鳴っていた。
この戦いを、そうだ、俺はずっと望んでいたのだ。
おそらく、このゾリオン戦を聞いたその瞬間から。俺はこの人との戦いを、心の底から欲していた。
俺はオッサンと、決着をつけたいと思っていたのだ。
…かつて。
俺が汐の父であり、今より未来に生きた頃。
俺とオッサンは、幼稚園の運動会で戦うという話をしていた。
俺はそれに向けて、トレーニングをしていた。
だが結局、その戦いは、汐の病があったため、無期限延期となってしまっていたのだ。
オッサンとの戦いの場。真っ向勝負のこの舞台。
俺はそれを、待ち望んでいたのだ。
「なるほど、な」
オッサンは真っ直ぐ、俺を見据える。
「てめぇが、そうか…」
「…」
渚はきちんと一日であったことを報告するタイプだ。だからきっと、オッサンは歌劇部のことは知っているのだろう。
多分、俺のこともある程度聞いているだろう。
この人に、俺はどう見えているのだろうか?
情けなく、見えていなければいいのだが。
「…渚」
「あ、はいっ」
声をかけると、渚がぱっと肩を弾いて返事する。
「胸のブザーを、俺にくれ」
「え…?」
困惑した視線を、俺に向けた。
「もう、残っているのは俺たちだけだ。最後の戦いだから…俺は、この人と、一対一で戦ってみたいんだ。我侭言って悪いけど、ダメか?」
「い、いえ…っ」
ぷるぷると頭を振るう。
そして、戸惑いもなく胸ポケットからブザーを取り出すと、俺に手渡した。
「岡崎さん」
渚はじっと、俺の目を見た。
「…頑張ってくださいっ」
「…ああっ」
俺もまた、渚の目を見て答えた。
かつて汐の信頼をめぐって俺とオッサンは戦いをしようとした。だけどそれは叶わなかった。
今のこの戦いは、その焼き直しだ。
…いや、その戦いの、本来の意味にたち返っているのだ。なぜならここに、渚がいる。
俺はブザーを胸ポケットに入れる。オッサンに目を向ける。
「最後の戦いだな」
「いい度胸じゃねぇか、小僧」
獰猛な目をして、オッサンは笑う。おそらく俺も、同じような顔をしているのだろう。
俺はこの人を超えたいと思っていたのだ。超えなければならないと思っていたのだ。
これは巡り巡ってわけのわからないままに俺の目の前に零れ落ちた、チャンスだった。
残光、陽光、微かな風。
少しだけ巻き上げられた砂が足元にかかる。
風が吹き、だが世界は静止していた。
精神が、糸をすり合せるように収縮していく。他の全てが意識の外へ、落ちていく。
戦いの時がやってきた。
遥か未来から巡ってきた、決戦の時がやってきた。
もはや言葉は要らない。
俺とオッサンは、真っ直ぐに向かい合い…
同時に、体を、躍らせた。
一瞬。
そこには奇策も経験もなかった。
速さ、力、そして意志。
譲れないふたつの思いがぶつかり合った。
…。
そして。
びぃぃぃーーーーーっ!!
空の下に、戦いの終わりを告げる音が、鳴り響いた。