folks‐lore 4/24



179


「おう、岡崎、おはよう」


教室に入り、自分の席に鞄を置くと、前の席の男が振り返って、挨拶。


「…」


「岡崎、おはようっ」


「…おはよう」


挨拶を返すと、男は満足そうな顔をして、再び前を向いた。


そしてそんな様子を、隣の春原は珍獣を見るような目で見ていた。


まあ、珍獣というのは間違ってはいないのだが。


俺はじっと、変態の後姿を見つめる。上機嫌に揺れる背中。


…目が腐る、と思い、視線を逸らした。


教室の前方を見てみると、藤林の周囲に女子が集まってなにやら話している。


そのメンツを見てみて…模擬店の話し合いだろうな、と見当をつける。


彼女らは全員で十人足らず。まだまだ、そんな人数だ。


だが…


彼女らは楽しそうにあれこれと話をして、何かメモに書きとめたりしている様子が見える。


そう、それは、楽しそうな姿だった。


今の時間、既に自習をしている生徒もいる。迷惑そうに見ている奴も、いなくはない。


だが、興味あるようにその様子をちらちらと見ている奴も、同じようにいた。


その輪は、小さな輪であっても、閉じて縮まっていく輪ではない。


傍から見ていて…少しずつ、彼女らの輪は広がっていってくれるのでは、と思えるような姿だった。






180


三時間目が終わり、俺はふらりと旧校舎へ足を向けた。


図書室へ。ことみの元へ。


なんだか、昼休み前に彼女のところに行くのが日課みたいになってしまった。


今日は弁当は仁科が作るとかって話だったから、ことみは自分の分だけ食事を用意しているのだろう。


…いや、違うか、風子の分も用意している、と思う。




しかし、そうか、仁科の弁当か。


楽しみじゃないわけではない。


だが、彼女の手作り弁当の裏には、何か含まれている感情があるような気がする。


それを考えると、能天気に飯を食ってる場合ではない、という気もした。


…仁科、か。


別にあいつのことが嫌いなわけではない。顔立ちも、性格も。


彼女が隣を歩んでくれるとして、それを不相応だと感じる男はそんなにいないだろう。


俺だって彼女の横に並ぶなら、他の男への優越感だって感じないわけにはいかないと、思う。


だが…。


俺には渚がいるのだ。悪いけれど、それは真実だ。


…いや、まあ、現時点での俺と渚の関係は、そこまで進展してないけれど。


それでも渚は俺にとって妻だし、それは変えることのできない事実だった。


「…」


いや。


まだ仁科に思いを告げられたわけではない。俺はそう考え直す。そもそも、この考えが思い違いだった、という恥ずかしい結末だってありえるのだ。今からそんな悩みぬいても仕方がない。


今は他に、考えるべき問題はあるのだ。


ことみのこと、だ。




…いつの間にか、旧校舎の三階までたどり着いていた。


俺は図書室の扉を見つめる。


まずは、目の前の大切なことをやっていくしかない。


今大切なのは、ことみのことだ。


俺は図書室の引き戸をあける。


部屋の中から、ふわりと風が吐き出される。俺は足を踏み入れる。



…。



「あ、朋也くん。こんにちは」


「よぉ」


ことみは、いつものように本を読んでいると思っていた。俺が訪れる時、ほとんどそうだったから。


だが今、彼女は窓の近くの席につき、外の景色を眺めていた。


いつものように開けられた窓。ゆらゆらと揺れているカーテン。


俺のほうに顔を向けたことみが、少し笑った。


…いつもと違った様子に、俺はどぎまぎする。


「今日は、どうしたんだよ」


「ううん、ちょっと」


ことみは再び、外を見た。


それを見て、彼女が少し疲れているような気がした。


だがそれも、仕方がないかもしれない。ここ数日は、ことみにとっても色々なことがあった。慣れないことが、色々あったはずだ。


そして、それをさせたのは俺だ。


俺は彼女の手前の席に座る。


同じように、外を見た。


風が吹き、少し雲が流れた。


薄められた町のざわめきが、ほんの少しだけ、聞こえた。


グラウンドのほうから、わあわあとした掛け声。どこかのクラスの、体育だろうか。


様々な物音に囲まれて…


それでも、なお、ここは静かだった。


空気の流れ。そして時間の流れも、置き去りにされたようだった。


ある種のものが、氷漬けにされたように、蜜蝋や琥珀に固められたように、俺とことみの間に浮かんでいるような気がした。


ことみと向かい合い、図書室の空気を、改めて思う。


俺とことみの間にあるような、置き去りにされたような何かがあるような…。


「なあ、ことみ…」


「…うん」


俺たちは、ぼんやりと視線を合わせた。


「ここのところさ、昼飯とか、杏とかとの創立者祭とか、さ」


「うん」


「すげぇ連れまわしちゃってるけど、もしかして、迷惑だったか?」


「あ…」


ことみは、俺を見る。


俺は図書室の中を、見るともなし見回した。


完結した空間。完結した時間。


俺は、自分本位で考えていて、あまりことみのことを省みなかった気がする。


もしかしたら、彼女はこの落ち着いた空間で過ごしていたほうがよかったのではないか、という思いが、少しだけ湧いた。


そりゃ、たしかに、俺は篭るのはよくないとことみを連れ出そうとした。ことみの担任の教師は、他の人間と関わっていることを是としてくれた。


だが、それでも、一番大切なのはことみ自身の気持ちだ。


俺は、そういえば、それを考えていなかったような気がする。


ことみ自身は、何を思っているのか。


俺はそれを聞きたいと思っていた。


「えぇと、ね…」


ことみは考え込むように顔を伏せ、もじもじと肩を揺する。


俺は言葉を待った。


今聞きたいと思っている言葉は、ふたりにとって、大切な言葉になるはずだった。




…おとといは兎を見たの。




ふと、初めて彼女にあった時の言葉を思い出した。なにがなんなのか、未だにわからないその言葉。だけどやはり、彼女は何の考えもなく、あの言葉を口にしたわけではないのだろう。


ことみはたしかに浮世離れした性格をしているが…それらも彼女の中ではしっかり完結していることなのだと思う。


だから、あの言葉は、少しの無駄も作為もない、まっさらな言葉だった、はずなのだ。


だけど俺にはその意図がつめない。彼女の心はわからない。




…きのうは鹿、今日はあなた。




その言葉は、俺の心の水面に、確かな波紋を描いていった。あれは、そんな言葉だった。あの時、そう言い終わった後で、ことみはうかがうように俺の目を覗き込んだことを覚えている。


おそらく…なにか、答えるべき言葉があったはずだったのだ。彼女の求める言葉があった、はずなのだ。


それは、きっと…




…あなたは、


「朋也くん」




「ッ!?」


俺はぱっと顔を上げる。戸惑ったようなことみの表情。


一瞬、ぼんやりしていたようだった。深い深い井戸を覗き込んでいた後ろから声を掛けられたような気分。


「私ね、ずっとひとりだったから…お友達がいてくれたらって考えたこと、あまりないから」


「そっか…」


「でもね…この頃はね、ちょっぴり思うの。ひとりぼっちは、やっぱりちょっとさみしいなって」


瞬間、ざあっ…と、風が吹いた。カーテンがぱたぱたと乱れた。俺たちをめぐる空気が入れ替わる。


体育の授業の声が聞こえる。木々のざわめき、町のざわめき。


ぐるぐるぐる、と、世界が回った。


「だから…」


風。それにも気付かないように、ことみは続けた。


「私、がんばってみたいの」


ことみは、ぐ、と、拳を握った。


その瞳は、前を向いていた。


「杏ちゃんと椋ちゃんとの、お店をやってみたいの」


「…」


俺たちは、まっすぐ、見つめ合っていた。


さきほど感じた、俺とことみを隔てた何かを、今は少しも感じなかった。


俺たちは、今、全てを共有しているような気がしていた。


「それに、ね」


ことみは続ける。


「朋也くん。朋也くんが、今やってる部活動のほうも…私、お手伝いをしたいの」


俺たちは…


ともに肩を寄せ合って、同じ地平を眺めているような気がしていた。


「ことみ…」


彼女の言葉が一拍遅れて脳に届く。ことみの言葉が俺に届く。


彼女は今、部活に入ってくれると、言ってくれた。


そのことの喜びが、じわりと胸に広がっていった。


渚の夢、部活動を達成するという目的、そのための人員が必要だという打算的な喜びだってもちろんあった。それは否定できない。


だけど、俺はむしろ、ことみが人の輪に飛び込んできてくれたこと、その方が嬉しかった。


「私、何もできないけど…朋也くんの、お手伝いがしたいの」


彼女が俺を真っ直ぐに見つめる。くりくりと大きな瞳は揺れず、その水晶の中に、小さな俺が映っているような気がする。


…ことみは一人ぼっちだったのだ。


周囲の世界から耳を塞ぎ、目をかたく閉じて、ひとり勉強をしていた。ことみには、彼女の目標があった。


だけどきっと、その目標は、逃避先という含みも持っていたのではないか。


自分の周りを囲んでいる、喜び、そして悲しみ。その全てを拒否しては、どこへも進む道はない。


俺は先日のことみの担任教師の言葉を思い出していた。


ずっとひとりじゃ、潰れちゃうでしょうからね…


ことみがなぜ、人を避けるようにここにこもっていたのか、俺はその理由を知らない。おそらく、知らない。


だが、今、ことみは恐る恐るながら…その手を、俺に委ねてくれているのだ。


彼女のその手は、幼い子供のように、小さく揺れているかもしれない。


ここから始まっていくのだ。


その言葉は、自身に向けられたものでもある。


ことみと俺は、少し似ている。


渚も、春原も…俺たちは、少しずつ似ているのだ。


俺たちは歩き出さなくてはいけないのだ。


歩いて進んだその先に、何があろうと、それは自分自身が引き受けなくてはならないものなのだ。


「ありがとな、ことみ」


様々な思いが渦巻いて、結局俺の口から出てきたのはそんな言葉だけだった。


あまりにも多くのことを伝えたい時、かえって多くのことを言うことができない。


だけどことみは全ての意図を汲んだように、にっこりと笑ってくれた。


「よろしくお願いします」


「ああ、よろしく」


また、ひとり。


俺たちを繋ぐ小さな輪が、少しだけ広がった。


歌劇部部員は、九人になった。



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