087
空を見上げると、曇天。
「…」
合唱部のふたりを、思い出す。
今日の放課後に、もうひとりの部員を見つけると言っていた。
勧誘活動ができるとなると、朝のうちか、放課後。
昨日、あの後部員が見つかっていないならば、今日の放課後が正念場だろう。
だが…
黒く、重く、低い雲。
放課後は、おそらく、雨だ。
決意や覚悟を、あざ笑うかのような天気だった。空を見上げ、憂鬱になる。
ベッドから這い出して、着替える。時計を確認すると、いつもより少し早い。
一階はひっそりとしていた。
まだ、風子は目覚めていないようだ。あるいは、布団で惰眠をむさぼっているか。
頭の片隅に眠気が残っているが、しばらくすれば取れるだろう。
「起きてるか?」
風子の部屋を覗くと、着替え中の風子と目が合った…
なんてことはなく、風子は安らかに眠っていた。平和な朝である。
「おい」
彼女の傍らにしゃがみ、頭をぺちぺちはたく。
「ん〜」
嫌々するようにきゅっと体を縮こまらせる。
「んん〜」
「朝飯作るから、起きてこいよ」
「ん〜…」
こいつまだ「んー」としか言ってない…。
半覚醒、といった感じだったので、そう声だけかけて、部屋を出る。
俺は台所に立ち、目玉焼きを作る。二人分。
料理を作るのは、慣れたものだ。長い間、ふたり分の食事を用意してきたのだし。
色々と考えることはあるが、料理を作っていると、結構無心でいられる。瞑想というほど高尚なものではないが、それに近い効用はあるような気がする。
しばし料理をしていると、後ろで軽い足音。顔を上げる。
「ああ、汐、今できるから…」
なんのてらいもない、自然な言葉だった。
俺は後ろを振り返り、風子と目線を合わせた。
「あ…」
小さな、呟きはどちらの口から、漏れたのだろうか。
かっと、体が熱くなった。それは、恥ずかしさでもない、憤りでもない。よく、わからない。
それは、知らない感情だった。体の中で、なにかが暴れているようだった。
なにかを、踏み越えてしまったような後悔が胸を突きあがった。
「…風子。悪い、なんでもない」
「岡崎さん…」
「ちょっとだけ、待っててくれ、居間で、すぐ持ってくからさ」
「岡崎さんっ」
風子は、だけど、駆け寄った。
だがその後どうすればいいのかわからないように逡巡し、ぎゅっと、俺の両手を握った。
手からこぼれた菜箸が、床を転がる音がした。
「大丈夫です」
と、風子は言う。
「大丈夫です」
「大丈夫だって」
「大丈夫です」
「ああ…」
「大丈夫です」
「うん…」
俺は、強く手を握り締めて、でも戸惑うように下を向いている風子のつむじの辺りを見つめていた。
「また、汐ちゃんに、会えます」
「え…」
「だから、大丈夫です」
風子は、確信したような強い光を瞳に宿し、俺を見つめた。
「ああ…」
俺は自然、頷いていた。
なぜだか、この手の暖かさを、ずっと昔から知っているような気がする。
088
感傷にふけっていたら焦げてしまった卵焼きを無理やり風子に食わせ(焦げてるところを食べたら、ガンになります! と涙目になっていた)、家を出る。俺たちは通学路を歩いていた。
「渚さん、大丈夫でしょうか」
「大丈夫だよ」
不安そうな風子。俺も、同じような気持ちだ。
渚は、不器用だとは思う。色々な壁にぶつかってしまう。器用に避けていけるような人間じゃない。そこは、俺にも似ているのだ。
だけど彼女の強いところは、それでも立ち上がることだった。
絶対に、立ち上がってはくるのだ。
向かっていけるような性格じゃない。だけど、少なくとも、逃げたりはしない。
そして、きっぱりした意志で決断を下す。彼女は、意外に、強情だ。
「頼む、あいつを信じてやってくれ」
「もちろんです。汐ちゃんの、お母さんですから」
「…ああ、そうだな。強い奴なんだ」
周りに登校する生徒が増えていき、やがて、俺たちは坂の下にたどり着いた。
渚の姿は、ない。
俺は何も言わず、そこで彼女を待つことにする。
風子は何も聞かず、傍らに立った。
いつのまにか、こいつも、ばっちり呼吸が合うようになっているな…。
そう思い、妙に、くすぐったい。
…。
しばらく待っていると、段々増えてきた生徒の中、俯きがちに歩いてくる、小さな姿。
渚は、へこたれなかった。ちゃんと登校してきている。だけどやはり、昨日のことは問答無用に堪えたようだった。
「おはようございます」
俺たちの姿を見つけると、少し笑って頭を下げる。やはり、元気がない。
「おはよ」
「おはようございます」
挨拶を返して、三人で坂を登り始めた。桜は、ほとんどすべてが散っている。敷き詰められたように舞い落ちた花びらは多くはくすみ、多くはよれて、物悲しい。
桜の季節は、終わっていた。
「昨日は、先に帰ってしまってすみません」
「いや、いいよ。というか、部長の渚が一番こたえただろうし、しょうがないだろ」
「ですけど部長ですから、わたし、もっとがんばりたかったです」
もっとがんばりたかった。
その言葉に、心が冷える。
「まさか、演劇部を諦めるなんて言うんじゃないだろうな?」
渚は気まずそうに、戸惑ったように、顔を背ける。
「…わたし、すごく、悩みました」
下を向いて、言葉を続ける。
「ですけど…どうすればいいか、どうしても、わからないです」
「ああ…」
「だから、今日の放課後…きちんと、話をして見たいと思います。もっとちゃんと、お話をしたいです」
俺は、少し安心する。
演劇部は諦める、という決意をしたわけではない。
彼女は、一度決めたら自分の決意を裏切れない。
演劇部を諦めるには、もう責任を持ってしまっている。だが、合唱部と戦うなんてそんなひどいことはできない…。
昨日。
一方的に合唱部の事情を聞かされた俺たち。だが、こっちの事情だって、彼女らに言ってやりたい。
あちらに事情があるように、こちらにも決意がある。そうやってお互いが認め合えて、その上でなんとか和解ができれば、それでいい。
実際、話し合いの場がどんな風になるかはわからない。
だが、言いたいことを言い合えるならば、どんな場だろうとかまわない、と思った。
「…すみません、わたし、部長ですけど…こんなことしか言えなくて」
「いや…」
そう言ってくれただけで、十分だった。
彼女はどうしたって、合唱部を蹴落とすことはできない。どうがんばっても、彼女らを不幸にしたいとは思えない。
「前も言ったけど、俺は、おまえの演劇部だから入ったんだよ。だから、自分を信じてがんばれ」
「…」
決断は、渚に任せる。
彼女はもう歩き始めているのだ。俺は後ろに続いて、それを見守ってやればいい。
渚は、俺の言葉に戸惑うように顔を伏せると…ぱっと、顔を上げた。
風子が、渚の片手を、握っていた。
顔を向け合ったふたりとも、戸惑うような表情。
「あの、渚さん…」
風子もまた、知っている。渚の病気…渚の決意。
「…がんばりましょう」
反射的な動きだったのか、そう言うと、それ以上言うこともない、というような困った表情になった。
「ふぅちゃん…」
渚がその手を握り返したのが、わかった。
…しかし、いつの間にか、その呼び名なんだな。
しばし、言葉はない。だがそれは、嫌な沈黙ではない。
とん、とん、とん。
俺たちは足音かすかに坂を行く。周りの生徒よりも、歩みは遅い。
ゆっくりと、追い越されていく。ゆっくりと、坂を登っていく。
校門が、次第に見えてくる。
「わたし…」
坂の上、校門のほうを見ながら、渚が呟く。
「わたしは…」
少しの逡巡。
「がんばりたいです」
意を決したように、それでも自信はなさそうに、そう言った。
「岡崎さんも、宮沢さんもふぅちゃんも、応援してくれてます。わたしも、創立者祭で劇をやりたいと思ってます」
道は、もう、伸びていた。先へ、先へ。
「合唱部の皆さんが、なんて言うか、わかりません。わたしよりももっともっとがんばっていて、そうしたら、わたし、やっぱり演劇部を諦めてしまうかもしれません。でも、それはしょうがないと思います」
考えながら、たどたどしく、言葉を続ける。
「だから放課後、もっとちゃんと、お話したいと思います。わたしは、演劇部の部長さんですから」
「ああ、そうだな」
渚の言葉、それは。
控えめでも、決意だった。攻撃的でなくとも、意志だった。
前回の時とは違う決意だった。あの時は、諦める決意だった。
演劇部が体を成していなかった前回とは違う。
今。彼女を支える思いがある。
人の思い、という見えない力に後押しされて、踏み出した一歩だった。それは、気付かなければ気付けない、大きな力だった。
「渚さん」
風子が、手持ちのトートバッグから昨日作ったヒトデを取り出す。
一回り大きな、まだ少しだけ、アンバランスなヒトデ。
「これ、渚さんにプレゼントです」
「ありがとうございます。とっても可愛いです」
「ヒトデですから」
「そうですね」
天下無敵の女子高生が、ヒトデが可愛いと笑い合っている…。
俺は何も言うまい…。
「それを持っていれば、なんでもできます」
「本当ですかっ」
「はい。運気上昇、お金は入る、男の子にもモテモテです」
「どこかの雑誌の後ろのほうに広告でありそうだな…」
怪しげな成功者の写真付きで。
「これさえあれば、人気者です。キャーキャー言われます」
「ありがとうございます。大切にします」
「…渚さんも、がんばってください」
「はいっ」
少女二人は笑い合う。
俺も、少し笑って、続く坂道を見上げる。
前に見える校門。その先に見える曇天。
放課後に、すべてがうまくいけばいいけれど。
放課後に持った希望。だが、この顧問の共有案でひとつだけ懸案事項があった。
それは、合唱部も規定の部員、後ひとりを加えなければならないということ。あちらはあちらで部として成立していなければ使えない方法だ。
合唱部の、難航している部員探し。
もし、今日、あちらに部員が見つからなければ、話し合いの場はどうなってしまうのだろうか?
できる限り、同じテーブルについて話をしたかった。
向こうが今日を失敗した場合について考える。あまり、心楽しい想像はできなかった。
もう少し待ってやろう、などと言うのか?
ラストチャンスを逃し、こちらがワンチャンスをまた向こうに提示する。
なんて、優しく、なんて、残酷な提案だろうか。だがそれも、人生でありうるひとつの形だとも思える。
だがともかく。今は、合唱部の努力を信じることにする。信じなければ、救われない。
今日は土曜日。昼を過ぎれば、放課後だ。
その時は、ひどく、近いような気がする。
089
校門を抜ける。昇降口に向かう途中、仁科と杉坂の姿が見えた。
部員の勧誘をしていた。
二人組の女子生徒に、声をかけていた。
仁科たちの表情は焦っていて、勧誘されている女子は少し引いているように感じる。必死さが裏目に出ているのが、傍から見るとよくわかった。
その調子は、よくない。
俺たちは、遠目にそれを見ていた。そして、やがて、通り過ぎた。
彼女らは、こちらを一顧だにしなかった。勧誘している少女たちだけに集中していた。
そんな姿を見て…、
もう少し落ち着いて勧誘をしていけ、なんて、誰が言える? どうして、言えるのか。
俺たちが彼女らのためにできることは、なかった。
向こうを敵とは思っていないが、味方になることはできない。
空はどんよりと曇っている。
体の中に藻がはったような気持ち悪い倦怠感。それは背負わなくてはならないものだった。
俺たちは彼女らに協力できない。
合唱部は、演劇部に立ち向かおうとしている。強い意思を持って、俺たちをなぎ倒そうとしている。
人の思いからは、逃げられない。どんなに苦しくても、後味が悪くても、受け止めなくてはならないのだ。