060
学校を出て坂を下り、商店街へと向かう。
「あの、すみません」
一緒に歩く、宮沢が俺を呼び止める。
「ん?」
その言葉は突然で、反応するのに少し遅れてしまった。
数歩歩いたところから、宮沢を振り返る。
宮沢が困ったような、所在無げな表情で立っていた。
「こちらの道からでもいいでしょうか?」
「ああ、いいけど…」
ただ、遠回りになる。
「少し、寄りたいお店があるので」
「ああ、もちろん構わない」
こっちがお願いしているのだ、むしろ負担かけている。
「どんなお店ですか?」
風子が興味ありげに聞く。俺も、興味があった。
「喫茶店です。お友達のお店なので、少し、挨拶をしていきたいと思いまして」
笑顔で言う。その笑顔は少し精彩がないようで、俺は少し気にかかるが、宮沢はふいと歩き出してしまっていた。
風子が小走りに宮沢の隣に続く。俺も、歩き始めた。
一度だけ振り返る。俺の影が伸びていた。
陽はそろそろ低くなっている。俺の身長よりも少し高いくらいの影。
影は、奇妙に生命力を持って躍動しているような…
だが、すぐ近くをすごい勢いで車が通りかかり、俺は興を削がれたように視線をはずして少女らの背中を追った。
…。
「それでは、少し、待っていてください」
商店街のわき道の喫茶店。
宮沢のお友達の関係の店で、コーヒー豆はここから仕入れているそうだ。なるほど、そりゃ資料室でお友達をもてなすために大量のコーヒーを消費しているだろうし、独自ルートがあったのか。
挨拶して豆を買うだけだから、ということで宮沢だけ中に入る。
風子と残された俺は、店の外観をしげしげと眺める。
「岡崎さん、ソンブレロってなんでしょう?」
それは、この店の名だった。夜はバーになるっぽい、なかなかお洒落な店だった。
「そぼろの一種じゃない?」
「違うと思います」
「まぁな…」
アンブレラ、とか語感が似ている気もする。いや、似ていても関係はないか。
「岡崎さんは、ゆきちゃんとは昔も知り合いだったんですか?」
「ああ、まあな」
周囲には奇妙に誰もいないから、けっこう気兼ねなくそんな話をする。それに、見ず知らずの人間がこんな話の切れ端を聞いたって、せいぜいなにかの物語とかの話題だとしか思わないだろう。
「ただ資料室に行ってコーヒー飲むくらいの関係だったよ。だから、こんな店見るの初めてだし」
「そうなんですか…」
思い返すと、半年近くの付き合いだったが、俺と宮沢は友人というまでの関係ではなかったような気もする。
あくまでも客人、という感じ。
あの頃と今では、一体何が違うのだろう。今では既に、外せない要人の一人のような気もするのだが。
状況が違うし、俺も違う。俺はいまさらながら、昼休みのことも思い出す。
「おまえは、今日の昼休み、どうだった?」
「ものすごく賑やかでした」
困ったような顔だった。
「ですが…楽しかった、と、思います」
だが、その顔は小さく笑顔になる。
「それなら、よかったよ」
風子は人見知りするタイプだ。
宮沢とか、たまにめちゃめちゃ波長が合う奴もいるっぽいが。渚なんかも、仲のいい姉妹みたいな感じでうまくやってる。
藤林姉妹とかとはちょっと距離があったかもな…などと昼を思い返す。
だが、あの雰囲気が嫌いではないなら、彼女たちとの相性だって悪くはないはずだった。
「あのあたりの連中から演劇部の部員を募ろうかと思うんだ」
「それなら、ゆきちゃんです」
即答する風子。俺は苦笑する。たしかにそりゃ、そう答えるだろう。
「ま、そうだな、宮沢でも誘ってみるか」
「それがいいです」
したり顔の風子。
「他の連中は、どうだ」
「それは…」
「おまたせしましたっ」
アンティークな雰囲気の扉が開かれて、宮沢がぱたぱた出てきた。
「ああ、いや」
「それでは、出発ですっ」
風子は先頭を歩き始める。
俺と宮沢は並んで、その後を追った。
061
商店街に着き、買い物は女性陣に任せることにした。買う物が物だから、そこはすんなりと決まった。
宮沢に財布を預けて、待ち合わせの時間と場所を決める。
そして、一時間ほど空き時間ができた。
(どうするかな…)
財布は今はない。ゲーセンという手はなかった。
だとすると、本屋で立ち読みでもするか、あとは服屋とかCDショップを覗いて回るか、というところしか選択肢がなかった。
まあ、なんでもいいか。適当な店に入って暇をつぶそう、と歩き出す。
空はまだそれなりに明るく、商店街は人通りも多かった。うちの学校の生徒も目に入る。
「あれ? 朋也じゃない」
「杏?」
そんな生徒のうち一人が声をかける。
杏が、友人らしき数人の女生徒と一緒にいた。他の女生徒は見知らぬ顔だった。
「あんたが陽平連れずにいるって、珍しいわねー」
「別に、いつも一緒にいるわけじゃねぇよ」
「それもそうね」
「あ、杏ちゃん…」
女生徒の一人が、こちらを伺いながら、杏の肩をたたく。
「ああ、ごめんね。朋也、じゃあね」
軽く手を振って、背を向けた。あっさりした態度だ。
他の女生徒はこちらを伺って不安げな表情。こういう顔を見ていると、高校時代の自分の立ち位置を突きつけられているような気がして、気が重くなる。
俺と、顔を合わせて笑ってくれるようなやつらは、やはり特殊な連中なのだ。
彼女らの後姿を見ている。杏がもう俺のことは忘れたかのように話しているのを見ている。
それは、遥か、遠い風景だった。
062
「お待たせしました」
商店街の中央あたりの広場。ベンチに座って空を見上げていると、覗き込むように風子が視界に入ってきた。
「よう」
「すみません、お待たせしてしまいましたね」
「いや、そんな待ってないよ。来たばかりだ」
実際は、ずっとここで考え事をしていた。あれから、誰にも話しかけられもしなかった。
いや、学外なのだからそれはそうなのだが、なんとなく胸がちくりとした。
風子と宮沢が来てくれて、ほっとした気持ちになる。
「全部揃った?」
「はい。当面は大丈夫だと思います」
俺に財布を返しながら、答える宮沢。
「すみません、今日はそろそろ失礼しますね」
「ああ、付き合わせちまって、悪い」
「いえ。好きでしていることですから」
「ゆきちゃん、また明日、です」
風子はちょっと照れたように別れの挨拶をした。別れの挨拶、というのが新鮮なのだろう。
「ふぅちゃん、また明日」
宮沢も、にっこり笑って言葉を返した。
頭を下げて、俺たちの帰るほうとは別の方向に去っていく。
俺と風子はしばしその後姿を眺めてから、帰途につく。
…。
風子が両手に持つ買い物袋を大部分もらって、帰り道。
がっちりガードして持たせなかった袋があるから、おそらくそれが下着類だろう。その袋のロゴは、なんだかおしゃれそうな感じ。ひとかごいくら、というタイプのものではなさそうだ。まあ、宮沢は気を遣ってそれなりにいいものを選ぶだろうし、それはそうか。
財布の中身の減り具合が気になったが、さすがにそれを風子の目の前でやるのも格好悪いのでやめておく。
思えば、実際に金がなくなって立ち行かなくなる、ということは経験したことがない。
高校生の頃は親父が俺に金をくれていた。小遣いに食事代を入れるとなくなる程度の額だが、短期バイトもしたし、そもそも大した趣味もないので、問題はなかった。
で、結婚してからは渚がちゃんと管理してくれていたし、それからは金に対する執着はなくなっていたし。
だけど、これから風子の身の回りの世話も、となると単純計算食費も倍だ。
貯金、そんなにないよな…。
このあたりも、考えておかなければ。
「服以外の物も買ったのか?」
手に持つ荷物は、なかなか重い。
「色々な、必要なものです」
「へぇ…」
袋の隙間から、中を覗いてみる。
歯ブラシ、シャンプーなどの洗面用品。ああ、こういうのも必要だよな…。
お菓子。…。
まあ、それくらい買うか。後は…
なぜかクラッカーが見えた。その他、置物みたいなものやおもちゃっぽいものや…。
「…」
ああ…。
宮沢には迷惑をかけたんだろうな…
あんな短時間で、いったいどれだけ店を回ったんだ。
必要なものは半分くらいだよな…。
遊び道具を持たせるな、と荷物をつき返してやりたくなったが、やめておいた。まあ、こういうのも、いいものだった。
063
鍵を開けて、家に入る。むっとした空気が中から吐き出される。
決して暑っ苦しい空気ではないのだが、屋内独特の湿気やこもりを含んだ空気。我が家のにおい。
「ただいま」
親父はいないようだった。こんな時間から家にいることは、そうそうないけれど。
「お邪魔します…」
あとから、風子が続く。
「ただいま、でいいよ」
「…いえ、お邪魔します、です」
頑なな表情で頭を振る。
「そうか」
この家で暮らすとしても、ここは風子にとって、本当に帰る場所ではない。
この家に対してただいまと言わないのは、本当に帰るべき場所に対して保留しておく、言霊みたいなものだろう。
その気持ちもわからないでもないから、そこは特に気にしない。
風子はたたっと洗面所に行くと、手を洗う。こういうところ無茶苦茶な奴に見えて公子さんのしつけが行き届いてるよなぁ。
というか、両親のしつけか。そういえば、風子の親のことって、聞いたことないな。別に死んでるわけじゃないと思うが。
それぞれの部屋に入り、俺は早速財布の中身を確認。
そして、
「マジかよ…」
俺は、絶句する。
財布の中身は、全く、手をつけられていなかった。
頭を抑えて、天を仰いだ。
宮沢に、頼りっきりだな…。
彼女の笑顔が目に浮かぶ。
だが、明日会ったら、叱ってやろう。もう少しこちらの顔も立てておいてくれ、と。
…。
今日は自炊。とはいっても、俺に作れるレパートリーはかなり狭い。それに今日は、材料もない。風子の買い物に気をとられていて、そういえば食料品の買出しをやっていなかった。
結局、残っている米を使ってチャーハンだった。とはいっても、風子には好評だからいいのだが。
食後、風子はプレゼントのヒトデを彫ろうとしたが、木材も彫刻等も学校に忘れてきてしまったことが判明した。
風子は風子で、やっぱり宮沢との放課後の話し合いが気にかかっていたのかもしれないな、と思う。
それからあとは並んで居間でテレビを見て、就寝。
朝から随分せわしない一日だったが、夜は、穏やかだった。