059
「あ、朋也さん」
「岡崎さん、遅いです。いったいどこに行ってたんですか」
資料室の中で、宮沢と風子がお茶を飲みながら、隣り合ってひとつの本を読んでいた。平和な光景だ。
さっきまでうだうだ考え込んでいた自分が、なんだかバカみたいに思える。
自分の悩みに埋もれても、その原因の少女二人は、なんの悪意もなく、本なんて読んでいるのだ。
「悪い」
苦笑しつつ、席につく。
「お茶を淹れますね」
宮沢がポットに向かい、新しくコーヒーを作ってくれる。
午後、柔らかい日差しを受けて、資料室のお茶会。
心が安らいだ。宮沢との対面。緊張していたはずなのに、不安であったはずなのに、俺は彼女の顔を見ると和んだ。
心のうちで、誰と戦っていたのだろう。自分の尻尾を追いかけて、同じ場所でくるくる回っていた。
疑うことを、争うことを嫌う彼女を敵だとでも思っていたのか?
俺はしばらく彼女の様子を眺め…やがて、目の前に淹れたてのコーヒーが運ばれてくる。
「ありがと」
そう言って、ひとつ、咳払い。
「気になってるから早速聞くけど、話ってなんなんだ」
だが、こう聞いてしまうと、やはり緊張する。
「はい…」
神妙な顔つきで、俺をまっすぐに見つめた。
「…」
少しの、間。
「ふぅちゃんの、体のことです。というよりも…体と、心のことといいますか」
「ああ…」
数瞬、無言のままに俺と宮沢は見つめあった。
「そのことか」
そのこと、だけか?
「はい」
宮沢は俺の瞳を覗き込む。
「朋也さんが、先生にも確認をしたんですよね。その…」
宮沢はちらりと風子を見やった。風子は静観するように事態を見守っている。
「ふぅちゃんは、休学中ということですけど」
「ああ」
俺の心は次第に凪いだ。
宮沢はどうも、風子が現在おかれている状況について、話をするつもりのようだった。
風子は、未来だの現在だのの話は、していないのだろう。
宮沢は……岡崎朋也の所業を知らない。意外なほどに、俺は安心していた。
いやもちろん、話が俺の過去に及んだからといって、自分のした恥ずべき行動をすべて話す必要なんてない。だけど、隠そうにも多少は話さなくてはならないだろう。隠したとしても、彼女はきっと感づく。そんな気がする。
「親戚って話は、だから嘘だ」
杏には九割方疑われている気がするけど、と付け加える。
それに宮沢は、十割でなければ大丈夫ですよ、と笑う。
「でもさ、なんていうか、信じてくれたんだよな、こんな話を」
「信じますよ。信じてますから」
「…」
はっきりそう言われて、俺は照れた。
「これから、親戚ということで通していくしかないですよね」
「ああ…」
宮沢の傍らで風子は、いきなりあんなこと言うなんて岡崎さんはどうかしています、とふくれた。
「でも、他にどう言えばよかったんだよ」
「親戚じゃなくても、言いようはあったと思います」
「例えば?」
「幼馴染なんて、リアリティがあると思います」
「ねぇよっ」
それに、幼馴染の女なんていないはず…
…はず。
「だけど、一応は目くらましになってるだろ」
「そうですね。もうこの方向で押し切るしかないと思います」
だから、と続けて宮沢は笑う。
「どんなに疑わしくても、しっかり塗り固めてしまえば追求できないはずです。もちろん、本当にそうだと思わせてしまえばベストですねっ」
にっこり笑ってえげつないことを言う…。
「ですので、設定を考えましょうか」
「設定?」
「はい。お二人の言うことが矛盾しないように、というのもありますし、あとは説得力を持たせるためですね。小さい頃から付き合いがあった、とかですねー」
「ああ、なるほどな」
というか、つまり幼馴染ってことじゃん。
「実は岡崎さんは風子に頭が上がりません」
「めちゃめちゃ無理がある設定だな…」
「見てみたい気もしますけど」
楽しそうに笑う宮沢。
「つーか、けっこう色々言っちゃってるし、一から作るってわけにもいかないだろ」
「そうですね…」
整理してみる。
親戚で、親御さんから世話を頼まれている。
あとは妹みたいなもの、とかって言った気もするな。
その辺を総合すると、かなり長い付き合いでわりと家族ぐるみ、という感じか。
なんかめちゃめちゃ親しそうな関係図が出来上がってしまった…。
「妹みたいなもの、ですか」
話し合っていて、宮沢はそこに引っかかったらしく、考え込む。
「そこを、取っ掛かりにしてみましょうか」
「どういうことだ?」
宮沢は、にっこりと笑顔を見せる。
「ふぅちゃんが、朋也さんを『お兄さん』と呼ぶなんてどうでしょうか?」
ぽん、と手を合わせて言う。
「岡崎さんが、ですか…?」
風子はちらりと俺を見る。
「最悪ですっ」
「最悪なのかよっ。めちゃめちゃ失礼だなっ」
「えぇと、ダメでしたか?」
困ったような、宮沢。伺うように俺たちを見る。
「っていうか、そんなんでだませるかよ」
「大丈夫ですっ。兄妹の絆ですからっ」
めちゃめちゃ笑顔で言ってくれた…。
というか、実の兄妹でもないのに絆も何もない。
先ほど言った、完全に塗り固めしまえば追求できないということか…。
俺はそんなことを考えつつ、手前の風子に目をやる。
むっとしたような、困惑したような、照れたような微妙な表情。
「〜〜、ゆきちゃんが言うなら…やってみても、いいです」
「…マジで?」
「そうですかっ」
宮沢は安心したようにまたぱっと笑う。きらきらっ、という擬音をつけてもいいくらいの笑顔。
「それじゃ、ふぅちゃん、言ってみてください」
「は、はい…」
促されて、風子はまっすぐ俺を見上げる。頬がちょっとだけ赤いのは、おそらく気のせいではないだろう。そして、俺も少しだけ緊張して高揚して、それは否定できないかもしれない。
「お…」
口を開いて、むすっとしたように、また口をつぐんだ。
拗ねたような顔で俺を見上げる。
そして…
「おにぃちゃん…」
「う…っ」
宮沢の、呼び方を兄妹っぽく、お兄ちゃんと呼ばせよう説。
茶番だぁっ! などと言いたくもなるが、宮沢はもう見たこともないくらいにいい笑顔で勧めるから、俺も風子もなんだかそれはいい感じかと思ったが…
だがこれは…
しかし、これは…
思った以上に…
「風子」
「なんですかっ」
風子、すごく変な人みたいなことを言ってますっ、と頭をぷるぷるとふるう彼女を、俺は見つめた。
「もう一度…おにぃちゃんって言ってくれないか」
「え…」
風子は、困惑した顔を俺に向けたが…
「お…おにぃちゃん」
「っ!!」
もう一度、俺の背筋から電撃が走った。
おにぃちゃん、なんて、なんて、なんて甘美な響きなのだろう。
顔を赤くしている風子がいつもより可愛い。
あれ? ひょっとして、風子は本当に俺の妹なんじゃね?
というか、俺の妹は、世界で一番可愛いんじゃね?
脳みそとろける、という表現は古典的なものだと思う。だけど今の俺の心情は、まさしくそんな感じだった。
おにぃちゃん、というのは非常に強く、庇護欲を駆り立てられる言葉だった。
特に俺の妹は可愛いし、なりは小さいし、気まぐれなところがあるから、やはり兄としてはすごく心配だ。
とはいっても、今現時点では妹は普通の学生生活とはまったく別の次元の問題を抱えているから、そういう凡百の心配は今は関わりはないか。
現時点ではこの状態でも仲良くできる友人が、宮沢がちゃんといるのだ、それで満足としておこう。
まあ、ちゃんと学校に復帰できたら、妹が学生生活を謳歌できるように奔走する準備はできているがなっ。
いや、それも未来の話だ。
今はもう一度、おにぃちゃんと呼んでほしかった。
「も…もう一度…っ」
「さあっ」
俺の懇願の語尾が、空元気気味な宮沢の声でかき消されていた。というか、テーブルを挟んでいるのに俺と風子の間に体を入れてきている。
「これで、カモフラージュは万全ですね」
冷や汗をかいた宮沢が取り繕うように言う。
「いや…まだだ…」
「万全ですよねっ」
「なっ?! ……あ、ああ、万全だ」
宮沢に押し切られて、少し、冷静になる。ふぅ、いきなり兄呼ばわりされて、ちょっとだけ焦っちゃったな。
「岡崎さん、なんだか興奮してました」
ああ、もうおにぃちゃんとは呼んでくれないのか…。
「いやっ、兄妹いないからなんか違和感があってさ。それだけだよ」
「そうですか。なんだか、岡崎さんからあまり近づいてはいけない気配を感じました」
「気のせいだろ」
「…」
「…」
警戒されている…。
「これからのこと、ですけど。わたしも一緒にお話してもいいですか?」
「ああ、宮沢が協力してくれるなら、すごく助かるよ」
「そうですか。急に割り込んでしまう形で、申し訳ないですけど」
なんか、仕切り直しを始める宮沢だった。
「いや。ところで、どんな経緯で風子は宮沢にこの話したんだ?」
「ゆきちゃんが、岡崎さんとは本当に兄妹なのかって聞いてきたので、本当にそうだったら最悪です、と答えました」
「こんな非常識な話をぺらぺら暴露するなっ」
「大丈夫です、他の人には喋りません」
「じゃあ、杏に本当に血の繋がりがあるかって聞かれたらどう答えるんだよ」
「真っ赤な嘘ですっ」
「秘密にしろっ」
先行き不安だ…。
「こんな状況ですし、ふぅちゃんは、やっぱり実家には帰れないですよね?」
「はい…」
「ま、さすがにな」
「それでは、普段夜はどうしているんですか?」
「ええと…」
俺たちは困ったように顔を見合わせる。
「よく、覚えてないんです」
「…朋也さん、どういうことでしょうか?」
「俺もよくわからないんだよ。多分、不要な部分はスキップされてるか、あるいは単純に意識が病院の体に戻っているとか」
「ああ、たしかにそうですね」
「ですけど、昨日の夜のことは覚えてます」
「俺が一緒にいたからじゃないのか?」
「昨日の夜…ですか」
宮沢がぽかんと目を開いて俺を見ていた。
…昨日の夜に一緒にいた。
よくよく考えてみると、なんだかあやしい響きだった。というか、勘違いされそうな言葉だった。
「いや、こいつをそのまま学校に残してくのはさすがに気が引けて、うちに泊めたんだよ」
「そうですか…ご家族になにも言われなかったんですか?」
「うち、昨日は誰もいなかったから」
「…」
宮沢の表情が固まっている…。
いやたしかに、このあたりの部分だけを切り取ると、とても健全な高校生の生活ではない。
だが状況が健全な高校生のものではないのだから仕方がない、などと言っても…納得はしてもらえないだろうな。男女関係が絡むと問題はデリケートになる。
「…そういうんじゃないんだ。というか、むしろ、今日からとか宮沢の家に泊めるとかはできないのか?」
「風子、ゆきちゃんの家のほうがいいです。岡崎さんの家にいると、なんだかむずむずするんです」
「落ち着かない?」
「ダニかなにかでしょうか」
「そっちのむずむず!?」
「ええと…」
宮沢は困った顔をしてしばし考えていたが…
「…わたしの家は、家族が反対すると思います。すみません」
「いや、家庭の事情だったらしょうがないだろ」
親が厳しいのだろうか。たしかに、そんな感じはするが。
それに、仮に今日一日風子を泊めたとして、これからずっとというと無理があるだろう。
「それなら、岡崎さんの家で我慢します」
「我慢が必要な家じゃないと思うけどな」
「なんだか落ち着かないんです。なんといいますか…」
「男しか住んでない家だからじゃないか?」
「そうでしょうか」
「俺も、わからないけどな」
ま、単純に、風子にとって人の家というのが違和感なんだろう。
俺も、急に行ったこともない人の家で暮らすなんてなったら戸惑うはずだ。
慣れも必要だろう。
…。
その後もあれこれと相談。
風子の、公子さんの結婚式のためのプレゼントの話は宮沢も協力すると言ってくれた。話の中で、前の時代の話は伏せていたので、多少違和感は感じたかもしれないが…。
俺がこそっと風子の衣類の相談をすると、ありがたいことに宮沢はこの後一緒に買い物に付き合ってくれるそうだ。
で、ひとまずは資料室を片付けて購買で予備の制服を買うことに。
新校舎に行く途中、ちらりと登りの階段を見やる。できれば、部活をやりたかったが…。
遊びに行くわけではない。必要な用事なのだから仕方がないと未練を振り払う。
そこで、不意に。
「…お兄さん」
「っ!」
耳元に、息が吹きかけられるような近さ、小さな声で。
振り返ると、無理に背伸びをして、顔を寄せる宮沢。
ごく、近い距離に、瞳が交わる。
目はすっと細められて、どうとでも取れそうな暫定的な微笑。
「そう言われるの、好きなんですか?」
「いや…っ」
俺は顔を伏せる。なんか、恥ずかしい。
たん、たんと宮沢が軽快に俺の横をすり抜けていく。彼女は前を歩く風子に追いついた。
そうして俺を振り返り、つられるように風子もこちらを顧みる。
胸がどきどきしていた。俺は、平静を装いながら、歩く速度を緩めている手前の少女たちに早足に追いつく。