056
昼休みが、もう終わろうとしていた。
俺はあっという間に宮沢の術中にはまり込んで、混乱していて、それでもそこにかかりきりになってしまうわけにはいかないとも思う。
放課後に、宮沢と約束ができた。
放課後。俺は部活をやっている余力はあるのだろうか? そんな余裕は、あるのだろうか?
それに、朝から考えていた、風子の買い物の件もあった。舞い込んだ二つの予定。
そりゃ演劇部ももちろん大事だが、こっちだって放っておけるような軽々しい問題じゃない。
B組で渚と別れる際、放課後に予定を立て込んでることを伝えようとする。
…が。
渚と二人でB組前に残ろうとしたところ、杏にネクタイを引っ張られ、強制的に連行される。
「んだよ、おいっ」
「朋也」
藤林からも距離を置いて、杏は俺に凄む。
「あんた、渚を可哀想だからって一緒にいるわけじゃないでしょうね」
真剣な、目だった。杏は杏として、思うところもあるのだろう。
「…」
俺は黙って、杏の手に俺の手を重ねる。解けるように、彼女の腕はネクタイから放されて、すとんと落ちる。
「まさか」
俺は言う。彼女を見つめる。
「俺はそんなに、優しくない」
俺が渚に関わろうと思っているのは…彼女のことが、好きだからだ。そして、同時に、それが俺のためであるからだ。
同情して、自らの自尊心を愛撫するためではない。そんなことをしている余裕なんて、俺にはありはしないのだ。
「…それなら、いいわ」
杏は、ぐいっと口を歪める。
「…渚っ!」
急にケンカを始めたような俺たちをぽかんと見ている渚に大きく声をかける。
「それじゃ、またねっ」
杏は、手を振った。
「…はいっ」
慌てたように、渚は手を振って、杏はそれを目に留めてもないうちに、振り返ると歩き出していた。
藤林を伴って、歩き去っていく。藤林がこちらをちらとふりかえり、頭を下げる。
昼休みももう終わりだ。生徒たちが交錯している。
そんな中、颯爽と歩く後姿は、遠くに行ってもよく見えた。
「…渚」
「ありがとうございました」
「いや」
「皆さん、すごく、優しくて、いい方たちばかりでした」
「そうか」
「わたしと演劇部で活動してくれるなら、どなたでも、すごく嬉しいです。もったいないくらいです」
思ったとおりのことを言っている。俺は少し、笑ってしまう。
「ああ、そうだな」
杏、藤林、ことみ、宮沢、風子。俺と、渚。
あの昼は、幸せな、ひとつの象徴のような時間だった。
そんな時間を、空間を、俺たちは目指しているのだ…。
「で、だ」
「はい?」
「今日の部活なんだけどさ、実は俺、放課後ちょっと予定が入ったんだよ」
「そうなんですか?」
「ああ、悪いっ」
結局、放課後のことは先行き不安で五里霧中。部活をやる余力と余暇があるかが全くわからない。
だから、変に彼女に思わしげなことを言うよりも、思い切って今日は行かないことにすると伝える。
「いえ、予定が入ってしまったなら、しょうがないです」
対して、渚はそんな気に留めた様子もない。
「ごめん」
「いえ、全然気にしないでください。わたしのほうこそ、お昼休み、すごく楽しかったです。ありがとうございます」
屈託なく笑う。その笑顔に、俺は安心する。彼女もまた、楽しんでくれたならよかった。
「それじゃ、またな」
「はい、また明日です」
俺は歩き始める。
背中に渚の視線を感じる。
だけど既に、懸案事項は放課後へと移っていた。
宮沢との待ち合わせ。彼女の知ったひとつの真実。果たさなければならない放課後の約束。
057
あっという間に、放課後。
様々な懸念が頭の中を舞い飛んで、授業中は結局集中できなかった。もともと、集中していないけれど。
「やっと放課後だねっ。岡崎、それじゃ坂上と対決しに行こうぜっ」
「え?」
隣の春原がさっそく話しかけてくる。そして、思い出した。
そういえば、放課後に智代と会うって約束があったんだよな…。
放課後の予定はこれで宮沢との件だけに定まったと思っていたが、そういえばもうひとつ、用事があったのだ。
「あー…」
実際、早く宮沢のところに行くべきという思いもある。だが、智代との対決は昨日はお茶を濁す形で春原も収まりがついていないだろうし、行かないとなると智代との縁がそこで切れてしまう予感もある。
資料室も大事だが、智代の件も大切な用事だった。それに、春原はどうせ秒殺されるだろうし、大して時間もとらないだろう。
「ああ、行くか」
席を立つ。
「そうこなくっちゃ。場所は、体育館の裏のところだよ。もう呼び出しもかけてあるからね」
「お前ってそういうところ本当にマメだよな…」
…。
「私も、暇ではないんだがな」
智代は既に待っていた。人気はなく、物寂しい所だ。しかし、智代も同じくらいマメだよな。
「へっ、そう言いながら、膝が震えてるぜ?」
「どこをどう見れば震えているんだ…」
呆れたように息をつく。
「この間、痛い目にあったばかりだろう? どうせまた同じなんだ、やめておけ」
「そう思っているのは、お前だけだぜ」
春原に言われて、智代はこちらに顔を向ける。
「こう言っているが、どうなんだ?」
「俺もそう思ってる」
「岡崎は、もう少し僕のこと信じてくれよっ」
「わかったわかった。それじゃ、おまえの修行の成果を見せてくれ」
「望むところだ」
春原はファイティングポーズをとる。それを見て、智代も構えることもないが表情は引き締まる。
彼女の中で、五感が高まっていくことを感じる。集中力。
少し、風が吹いて、木の葉がざわめく。
下校の生徒、部活の生徒、歓声が聞こえる。すぐ脇、体育館の中からは準備体操をしている掛け声。
「昨日も言ったな」
智代の声が、いつもより低い。
「人に見られて、暴力を振るっていると思われたくない。正当防衛にしたいから、そっちからかかってこい」
「一回勝ったからって、随分余裕だね」
「そこのおまえ、証言してくれるか?」
「ま、いいけど」
「それなら…こい」
智代が目を細めて春原を見る。真っ直ぐに、突き刺すように、見る。それだけでかなりの威圧感があった。
「それじゃ、お構いなく」
春原はそう言うと、左右に体をぶらしながら(フェイント?)ダッシュ。
そして…
ガスン!!
春原の体が遠くへ飛んでいった。
「まったく…」
呆れたようなため息をつく智代。なんだか、こういう姿を見るのも、久しぶりだ。忘れていた高校時代の感情が湧きあがって、なんだか笑ってしまう。
「おい、関係者」
敵意、というほどでもないが、若干力を込めた視線が射抜く。
「俺か?」
「あいつの関係者なんだろう?」
「まあ、そうかな」
「私は、これでも忙しいんだ。あいつに絡まれるのは迷惑なんだ。止めてくれないか」
「あいつが、話を聞くとも思えないけど」
「やれやれ…」
「まあ、変なのに絡まれて運が悪いと思って、諦めてくれ」
「もう少しこっちの身になってくれっ」
「一回負けてやれば飽きるんじゃないか?」
「それはごめんだな。わざとだとしても、負けるのは嫌いなんだ」
「それじゃ、完膚なきまで叩き潰すとか」
「もうやってるつもりなんだけどな…」
「これくらいでへばるようなタマじゃないぜ?」
「最悪だな…」
「まあ、俺のほうからも言ってはみるよ」
「うん、そうしてくれるとありがたい」
「じゃあな」
きびすを返す。傍らの体育館の中からは、ランニングをしているような足音が聞こえてくる。春原は瞬殺されたとはいえ、やはり微妙にタイムラグ。資料室に行かなければ。
背中を、智代の声が追いかけた。
「ああ、待ってくれ」
「ん?」
「名前を聞いてもいいか?」
「岡崎朋也」
「岡崎か。私は、二年の坂上智代だ」
「ああ、知ってる」
「そうか」
「さっきの奴は、春原陽平」
「あいつの名前は聞いてないぞ…」
「一応な。それじゃあ」
「うん」
言って、別れる。智代は俺には敵意は持っていないようで、二人で話していると、空気は段々和やかなものになっていた。
058
資料室の扉の前に立つ。
何の変哲もない引き戸。平和な引き戸だ。その前に立って、しばし、逡巡。
先ほど、何度も頭よぎっては形にもならずに消えていった悩みが、また首をもたげる。
宮沢は、何か知っている。風子から、何か聞いている。
秘密を知られるというのは、こうも、気持ちが悪いものなのか。
秘密。俺が、というより、俺の意識が未来から遡ってきているということ。風子の記憶も同様だ。そして、風子の場合加えて、意識が実体を持って学校をさ迷っている。
まるで、戯れの物語のように、現実感がない、秘密。
これが露見したとして、おそらくきっと、誰だってつまらない冗談としか思わない。仮に宮沢が悪意を持って広めようとしたって、おそらく、俺と風子の悪意ある冗談に加担しているようにしか見られないだろう。
周りに知られたくない、言いふらされたくはない、現実的な話ではないから、言わない。これは単なる秘密ではなかった。
現実感がなさすぎて、信じられることがないような真実。
…そうだ、そういう秘密ではない。
秘密がばれることがいやなのではない。
根源はもっと手前にあった。
…、
俺は、ただ単に、知られたくなかった。
俺の記憶…時を遡る以前、俺がしていた所業。
俺の過ち。俺の無神経。逡巡。困惑。諦め。無関心。俺の、過去だ。
ただ、知られたくなかった。いや、俺自身が、話がその頃に及ぶのが嫌だった。
中身が腐った果実のように、妖しく心にのしかかる、抑圧、鬱憤。
汚い、自分自身。
大して価値もない自分の存在を、看破されたような不安。そうだ、不安とはつまり、そういうことだ。
俺は、秘密がどうのと外見を作り、もっと根元に抱えていた自分への軽蔑を、ごまかそうとしていた。
こんな自分を、人に、宮沢に見られたくなかったのだ。
ばれることが嫌ではない。知られることが嫌だった。
同情されても、白い目で見られても、辛いのだ。知らないでいてほしかった。
俺がほしかったのは、ただ、…。
……。
頭を振った。思考のドツボにはまりそうだった。
そもそも、彼女が「聞いたこと」というのも、もしかしたら全く別のことという可能性もある。いや、そんな考えは楽天的に過ぎるだろうか。
そもそもだ。
宮沢と、話してみなければ何も始まらない。
俺は意を決して、扉を開ける。力をこめて扉を開ける。
…。
からからー、と、笑ってしまうほど、のんきな音がした。